チェリー-1
「サクランボが届いてるよ、龍。」家の中から母ミカの声がした。
「えっ!ホント?」玄関で靴を脱いでいた、学校から帰ったばかりの龍は、急いでキッチンへ駆け込んだ。
「やったー!」龍は箱いっぱいのその赤い、つややかなサクランボを早速つまんで食べ始めた。
「こ、こらっ!つまみ食いするな!」
「『シンチョコ』にも届いたのかな。」
「たぶんね。」ミカはまたまな板に向かった。
毎年夏になると、ケンジの伯父からたくさんのサクランボが海棠家とシンプソン家に送られてくる。それとは別に『Simpson's Chocolate House(シンチョコ)』のシェフ、ケネスは山形のその『海棠農園のサクランボ』を毎年契約購入していて、届いたサクランボは茎を外し、種を抜いて、店で砂糖漬けやラム酒漬けにする。そしてそれはチョコレートの中に仕込まれ、冬季限定の『Cherry Chocolate』シリーズとして販売されるのだった。
「俺、確かめてくる。」
「何を?どこに?」ミカが振り向いて言った。
「届いたかどうか、『シンチョコ』に。」
「んなこと言って、お前真雪に会いたいだけだろ。」
「行ってくる。」龍は箱のサクランボをひとつかみして、キッチンを走り出た。
「夕飯までには帰ってくるんだぞ!」
「届いてるよ。」真雪が店の入り口で龍を出迎えた。
レジのあるカウンターの奥に、大きな段ボール箱が二つ、重ねられていた。
「さあ、明日から忙しくなるで。」ケネスが言った。
「サクランボの加工だよね、ケニー叔父さん。」
「そうや。半分は砂糖漬け、ほんでもう半分はラム酒漬けや。加工が済んだら、龍にも試食させるよってにな、期待しててええで。」
「いつもありがとうね。」
真雪が龍を手を取って言った。「あたしの部屋で少し食べようか、龍。」
「いいね。食べよ。」
真雪の部屋に入った二人は、仲良く床に座ってサクランボをつまみ始めた。
「毎年のことだけど、美味しいね。」真雪が言った。
「山形産だし、旬だしね。」龍はサクランボを茎ごと口に放り込んだ。
「茎ぐらい外したら?」
龍は手のひらに種だけ出して、口をもごもごさせ始めた。
「何してるの?」真雪が手を止めて龍を見た。
「じゃーん!」次に龍が手のひらに出して見せたのは、結び目のできたサクランボの茎だった。
「わあ!すごい、龍、器用な舌だね。」
「サクランボの茎を口の中で結べるのは、キスが上手な証拠なんだってよ。知ってた?真雪。」
「ホントに?」真雪は懐疑的な目で返した。
「ホントに?」龍が同じように真雪に訊ねた。
「上手だね、確かに龍は。」真雪は笑って龍に顔を近づけ、両肩に手を置いて唇を重ねてきた。龍は真雪の背中に腕を回して、唇を吸い、舌を口の中に差し入れた。そうして二人はお互いの唇や舌を味わった。真雪は今まで食べていたサクランボの香りが口の中から身体中に広がっていく気がした。
「チェリーってね、」口を離した真雪が言った。「未経験のコ、っていう意味の英語のスラングなんだよ。」
「知ってる。『童貞』っていう意味なんでしょ?」
「元々女のコのことを言ってたらしいよ。男のコのことは『チェリーボーイ』。」
「じゃあ俺、真雪のチェリーを頂いちゃった、ってことだね。」
「あたしも龍のチェリーをその時もらっちゃったんだね。」
「お互いに摘み立てのチェリーを食べさせ合った、ってことか。」龍が言って笑った。真雪も笑った。
「で、どう?学校は。」龍が訊ねた。
「あたしのニーズに合ってる。とってもいい専門学校だよ。」
「そう。良かったね。でも来年卒業だよね。」
「うん。今年の冬には一週間の実習もあるんだよ。」
「実習?どこで?」
「水族館。」
「そうなんだ。」
高校を卒業し、真雪が今通っている学校は、動物の飼育に関する専門的な勉強をするための専門学校だった。いろいろな動物の生態から身体の仕組み、飼育方法などを実習を通して身につけていく。卒業後は動物の飼育員や調教師、インストラクターなどの職が待っていた。
「龍は?高校は楽しい?」
「もう、最高だよ。」
「写真部って珍しい部活だよね。」
「そうなんだ。近くの高校に写真部があるなんて、ラッキーだったよ。」
「部員は多いの?」
「うん。けっこういるよ。みんなカメラおたくや写真オタク。当たり前だけどね。」
「先輩は優しい?」
「思ったよりね。中でもカスミ先輩っていう三年の先輩がすごく親切にしてくれる。」
「龍、」真雪が少し睨んだように龍を見た。
「なに?」
「あなたそのカスミ先輩に優しくされて、ふらふらと・・・・」
「あははは、それはないよ。真雪がすぐそばにいるのに、それはあり得ない。」
「大丈夫かなー。」真雪は龍の頭を小突いた。
「あっ!信用してないな。」
「嘘だよ、ごめんごめん。」