8-2
翌朝、もう握った手は離れていた。
「んー、おはよ。眠れた?」
目を瞬かせながら真吾は伸びをした。
「半年ぶりに、眠剤なしで眠れたよ、ありがとう」
手を握ってくれと頼んだのは彼の方なのに、結局は彼に助けられている自分がどうしようもないなぁと、私は首根っこを掻く。
布団を畳むと「朝は簡単な物でいい?」と訊くので「お礼に何か作らせて」と申し出た。
週に数回は外食をすると言っていた真吾だが、冷蔵庫にはそれなりの材料が詰まっていた。
「俺、パン食だから」
「じゃあ食パンと、ハムエッグと、サラダと、コーヒーでどう?」
カウンターから顔を出すと、彼は親指を上げて応えた。目を合わせて微笑み合った。
人の家の台所には、どこに何があるのか分からず焦ってしまう。あっちに行ったりこっちに行ったりで落ち着かない。それなのに彼は呑気に言い放つ。
「なーんか、自然なんだよな。恵がそこに立って、俺がここに座ってるのって、今まで経験が無いのに妙に自然なんだよな」
私は赤面を悟られない様に下を向いて作業に没頭した。
「恵。ずっとここにいたらいのに」
破壊力のある言葉だが、無理難題はスルーするに限る。今日はあの、泥水の中の様な重苦しい現実、自宅マンションに帰らなければならない。それが現実なのだ。そろそろ現実世界へと戻る準備をしなければ。
「わぁ、朝ごはんっぽい!」
テーブルに置いた朝食を見て真吾は舞い上がっている。
「だって朝ごはんだもん」
聞くと、奥さんは料理がからっきしで、朝はトーストとコーヒーで済ます毎日だったそうだ。それでも新婚だった二人に、お互い不満は無かったんだろうと思うと、妬ける。
「美味いなー。何で俺の嫁にならなかった?」
「バカ。奥さんの遺影に五万回謝れ」
真吾はククッと乾いた声で笑った。
「今日はどうするつもり?」
あまり考えたくなかったが、そういう訳にもいかない。
「彼の帰りを待って、治療する意志があるのか問いただす。返答によっては......離婚も視野に入れなきゃいけないかもしれない。離婚するなら子供が出来ないうちの方がいいもんね」
真吾はサラダのレタスをフォークで刺しながら「俺は恵が幸せになれる一番の方法を選んで欲しいな。少なくとも今のままじゃお前、潰れちゃうからさ」と言ってレタスを口に運んだ。
私はしばらく無言で朝食をつついていた。
食器の片付けまで済ませて、部屋着を返却し、身支度を整えた。
また仏壇の前に立ち、お礼をした。
「何かあったら俺の所に来ていいから。俺は何もしない。お前の話を訊いてやる事ぐらいしか出来ない。でも眠剤なしで眠れるぐらいリラックスできるのなら、それだけでも儲けもの、だろ?」
本当は私が、彼をサポートしていかなければならないのに、手を繋ぐ事しか出来なかった。歯痒くて、悔しくて、ずっと変わらない彼の優しさが身に染みて「帰りたくない」と口をついて出そうになったのを何とか耐えた。未練がましい女だ。
「じゃ、私はそろそろ」そう言ってテーブルに置いた財布とスマートフォンをデニムのポケットにしまい、玄関に向かった。
一緒に玄関まで来た真吾が「恵」と声をかけたので、ブーツを履く手を止めて斜め上にある彼の顔を見た。
「お前は昔っから我慢しぃだけど、すぐ顔に出る。俺にはわかる。だから我慢しないで俺を頼ってくれ」
私は目線を逸らしてから一度、大きく頷いた。目線を合わせたら、また涙腺が崩壊しそうだった。 「それと」
少しハリのある声に驚いて彼を見た。
「手、暖かかった。こんな俺も一応、孤独ってのを感じたりするんだよ。いつもよりよく眠れた。感謝してる」
今度は「うん」と声に出して頷き、笑顔を見せた。彼も満足げに笑った。
「その顔だ。俺が惚れた下田恵だ」
少し高い位置から私の頭をスルリと撫でた。旧姓で呼ばれた事が妙にくすぐったい。
「ま、また連絡するから」
赤面を隠す様に後ろを向き「じゃ、お世話になりました」と言って扉を閉めた。
夫の事なんて頭になかった。私は真吾に、堺真吾に、本気で惚れ直してしまったらしい。