南風之宮にて 4-9
「……?」
覚悟を決めて待って――待ったといっても、それこそ血の噴き出す一瞬のことではあったが――彼は戸惑った。
返り血が、来ない。
確かに皮膚を切り裂いたはずだ。さほど深くではないが、手応えがあった。
刃の当たった箇所を見ると、胸部の傷は間違いなくぱっくりと口を開いて、淡紅色の断面をさらしていた。
だがあるはずの生ぬるいどろりと赤く濁った液体は、そこから噴き出しも、滲み出しすらしない。
彼は気味の悪さをおさえきれず、背後に飛び退った。
相手は魔族だ。人と違うのは当然のことだ。
そう自身に言い聞かせながらも、斬った手応えは人体そのもので、彼はなかなかその認識のギャップを埋められずにいた。
見かけがグロテスクな魔族らしい怪物であれば、あるいはただの人間であれば、すぐさま剣を振るうことにのみ没入することができただろう。
油断はしていないつもりだった。敵は確かに殺意をもって向かってくるのに、油断できるはずがない。
だが常の、集中のあまり感覚が遠くなる……何も見えず、聞こえなくなった、と錯覚するほどに周囲のあらゆる物事を感じ取り、周りがひどくゆっくり動いて視える、あの境地とはほど遠かった。
その状態であれば、空気の刃が複数、彼を囲むように出現したことにも気付けただろう。
否、気付くことはできた。
超人的な反応で、彼はそのほとんどを避けた。……全て、ではなく。
「しまっ……」
とっさに剣を引き上げた。だが空気の刃は鋭い。鋼の剣をたやすく折りとった上で、延長線上の彼の体を引き裂くだろう。
せめて致命傷を避けようと、彼は空気の刃の正確な位置を見きわめるために目をこらした。
そのときだった。
パシ、と何かの弾ける音がした。同時に空気の刃の気配が一つ、空中でかき消えた。
「シアのひな鳥……まだ力が使えたか!」
それまで落ち着き払っていた甘い声が、わずかに緊張に引き攣った。
ハヅルの力だ、とエイは意識の隅で悟った。
彼女にしては酷く弱々しい、わずかに相手を驚かせる程度の力でしかなかったが、エイにはそれで十分だった。
彼は一気に間合いをつめ、大きく上段に振りかぶり、全体重を込めて振り下ろした。
ひと度まばたくよりも短い、刹那の出来事だった。