夜半の月-2
「あの、式部様……左大臣様がこちらにいらっしゃるとのことです」
「え、今から? 参ったな……まだ、あんまり書いてないのに」
真っ白な巻紙を見て、わたしはひとつ溜息をついた。
書ける時にはいくらでも、寝ることすら忘れて没頭してしまうのだが、ここしばらく調子が出ない。
今から来るらしい、この左大臣こと藤原道長のせいに違いなかった。
道長は、今この国の最高権力者と言っていい男だろう。
道長と呼び捨てにするのは、身分違いも甚だしいのだが、ここでは敢えてそうする。
どうせ、この文に限っては人目に触れることはないのだ。
さとが小袿(こうちき:改まった時に着るジャケットのようなもの)を用意している。
面倒なことだった。
広げてくれた小袿に、わたしはのろのろと腕を通してやる。
わたしが、この小袿を来たまま、道長が帰ってくれればいいのだが。
廊下をのっしのっしと踏みしめて歩く音が聞こえる。
道長がここを訪れる時に聞こえる、いつもの足音だ。
わたしは少し苦笑した。
前任の女房、清少納言が、うるさい物音を「すさまじきもの(興ざめなもの)」として彼女の著作の中で切り捨てていた事を思い出したからだ。
さとが襖をそっと開けた瞬間、わたしは恭しく深々と額が畳につくほど下げて見せた。
「よう、式部よ、変わりないか?」
「左大臣様のおかげを持ちまして、日々穏やかに暮らせております」
「フフ、今さら左大臣などと、堅苦しいな? 道長と、名を呼べばよい。顔を上げよ」
「畏れ多いことです」
「ここに居る時の俺は、左大臣などではなく、ただの道長だ。気を遣う必要はない。それより顔を上げよ」
「はぁ……」
ゆっくりと、顔を上げた。
わたしは、気持ち顔を伏せて、道長の顔は見ないようにした。
道長は、おそらくわたしの顔を見ていることだろう。
活動的な彼らしく、鮮やかな青の狩衣(かりぎぬ:男性用の衣服)に袴を履いて、頭には大きな烏帽子を着けている。
身長はかなり高い方だろう。
壮年になったからか、いくらかふくよかな体型だが、がっしりした手足をしていた。
目つきは鋭く、鷹のような目をしている。
まさしく人の心の遥か遠く先を見渡しながら、今の地位を掴みとった男だった。
だが、ここに居る時は、それでも幾分穏やかに見える。
道長が、そこまでわたしに配慮しているのかはわからない。
大きな烏帽子を頭から外して、どっかりと道長は畳の上に座った。