人為らざる物-2
「倉田真一、か」
近藤は、もう一度写真を見た。それは上着や犯行現場から採取された指紋から割り出した容疑者の写真だった。
倉田真一、二十九歳。会社員で被害者の部下。状況証拠は揃い、逮捕状は既に出ていた。しかし、近藤は腑に落ちなかった。それは今回の事件自体に対してである。完璧な犯行だった。
誰にも目撃されずに部屋に入り、部屋の外側のドアノブに指紋は無い。大きな音も立てずに刃物を突き立て、相手を見ながら更に数度の致命傷を負わせる。しかしそこで電話のベルが鳴る。
――― 問題はそこからだ
そこまで冷静沈着だった男は、急に取り乱す。隣のアパートの住人が、電話のベルに気付き窓越しに部屋を見遣る。そこにいたのは刃物を手にした容疑者、倉田。彼はそれまでの見事な犯行が嘘のように、指紋など気にせずに部屋から飛び出し、容易に見つかりそうな場所に上着を隠した。まるで犯行前後で別人のように思える。
ガタ
近藤は椅子から立ち上がり、署から出て行った。
「署長」
新米の刑事、真鍋が言う。
「どうして近藤さんだけは単独行動が許されているのですか?」
「簡単なことだ。近藤は特別だからさ」
その答えが気に食わなかったのか、真鍋は眉間に皺を寄せた。
「わしは昔、近藤と一緒によく捜査をしていたよ。それで思い知った、奴の考えは常人には分からん。それは天性のものだ。独特の切り口で捜査に迫り、数多くの事件を解いてきた。わしはもう前線を退いた身だが、奴はまだ足らないらしい」
「足りないって、何が」
「だから、わしには分からんよ。常人だからな」
真鍋は署長の真意が理解できなかった。
「一緒についていったらどうだ。何か新しい考え方が生まれるかもしれんぞ。」
「良いんですか?」
ずるり、とお茶をすすりながら署長は言う。
「お前が単独行動が気に食わんと言ったのだろう?ならば二人で捜査すればいい」
真鍋は子供のように目を輝かせて言った。
「ありがとうございます」
言葉に出すと同時に真鍋は、上着を手に近藤の後を追った。
嫌いだから殺した。
ああ、そうだ。
今回はその通り。
けれどそれが全てじゃない。
愛しているから殺す。
ああ、そうだ。
それも正しい。
――― 狂っている?
何がだ。
それにしても、暗い。
ここは暗いなぁ。
「近藤さん、どこに行くんですか?」
真鍋が小走りに署から出て、近藤に追いついた。
「何だ、何しに来た」
「署長から、近藤さんの捜査から学べって忠告されました」
近藤は胸のうちで小さく溜め息をついた。
(あの野郎、厄介ごとを押し付けるんじゃねぇよ)
「勝手にしろ。俺は何も教えんからな」
「それじゃ勝手に教わりますよ。現場に行くんですね?私が運転します」
近藤は何も言わずに車に乗った。
「今回の事件、どう思います?」
発車させるなり真鍋は切り出す。
はぁ。
近藤は胸のうちで小さく溜め息をした。
(このガキ、随分と危なっかしいよ)
完全に気負いすぎに見える。レース前の馬のように、彼はいきり立っているようだった。
「おい、一つ言っておくがな、今回のヤマは周りが思うほど簡単なもんじゃねぇよ」
その言葉に真鍋は更に興奮した。
「どうしてそう思うんです?長年の刑事の勘ってやつですか?」
運転中だというのに身を乗り出して聞いてくる。
「お前・・・」
うんざりした顔で近藤は言った。
「ドラマの見すぎだよ」
「状況証拠から倉田の犯行は、まず間違いないと思いますがね」
真鍋は現場の部屋を見回す。
「しかし被害者が多くの恨みを買っていたのも事実です。かなり性根の悪い上司だったそうです」
「なぁ、真鍋よ。外側のドアノブには指紋が検出されずに、内側から倉田の指紋がべったり。これどう思うよ」
真鍋はしばらく顎に手をやって答えた。
「多分、隣のアパートの住人に見られてパニックに陥ったんだと思います。だから」
「もういいや」
近藤は煙草を内ポケットから取り出して火をつけた。
ふぃぃ。
溜め息と共に吐き出される煙。近藤が一体何を考えているのか、真鍋には想像もつかなかった。ただ、事件現場を冷たい視線で見つめる彼の姿に、真鍋は物怖じした。
――― わしには分からんよ。常人だからな
署長は言った。ならば私にも分からないだろう、真鍋は思う。その冷徹な目で、数々の事件を解決してきた男は、けれど生涯現場一筋を誓ったという。何が彼を惹きつけるのか。ゆらゆら漂う煙の行く先を見る。『氷の目をもつ男』近藤。犯人は必ず彼に捕まえられるだろう。