第3話-5
「じゃあ、私はこれで…」
「え、もう帰るのか?せっかく来たんだし、一緒に食べて行けば?」
「でも…」
「あっ、用事あるなら別に…」
少し躊躇ったような表情を見せる英里に、圭輔は少しうろたえる。本当は一緒にいたいが、どうも押しが弱い彼なのだった。
「あの、じゃあ家に連絡してみますね」
英里は一旦階下に降りて、携帯を取り出し、自宅へ電話し始めた。
以前の朝帰りの一件依頼、母親がますます彼女の行動に干渉してくるようになったためである。
『もしもし、お母さん?今日少し遅くなるけど心配しないで…え?大丈夫。迎えにきてくれなくても1人で帰れるから。じゃあ』
その間、圭輔は自宅のドアに寄りかかって彼女を待っていた。
最近、いろいろと忙しくて英里とゆっくり会う機会もなかったので、少しでも彼女と一緒に居られる時間が欲しい。
そのうちに、英里がまた階段を昇ってくると、
「先生。じゃあ、少しだけお邪魔します」
そう、はにかんだ笑顔を見せた。
「適当に座ってて。コーヒーでも淹れるから」
「あ、はい。すみません」
圭輔が台所に立っている間、何もする事のない英里は、とりあえずテーブルの近くに腰を下ろす。
相変わらず、ごちゃごちゃとしていて狭い彼の部屋。
だが、今はほんの少しだけ英里にも愛着が湧いている。
「お待たせ」
「ありがとうございます。あ、ケーキ、どれが良いですか?」
買ってきたケーキの箱を開けると、中には10個近く色とりどりのケーキが収まっていた。
「…さすがに、こんなにも1人じゃ食べきれないって…」
「たくさん種類あった方が良いかなぁと思って…。まぁ、いいじゃないですか。先生ショートケーキお好きなんですよね?」
英里はそれを慎重に皿の上に取り出し、次に自分の分のチョコレートケーキを取り出す。
「あ、ホント美味いな。生クリームが特に」
「でしょう?」
買ってきた甲斐があった、と英里の顔が綻ぶ。
「水越さんのはどう?」
「あ、食べますか?」
彼女はフォークでケーキを切り、圭輔の口の前に差し出す。
だが、次の瞬間、その手を自分の方へと戻した。
つい、いつも友人と行く時のノリで、やってしまった。
「ご、ごめんなさい、こんな下品な事…」
しかも、自分が既に口をつけたフォークを差し出すとは、彼に呆れられていないか英里は不安げに圭輔の表情を窺った。
彼は、彼女が引っ込めかけた手首を掴み、自分の口の前に持っていくと、そのケーキを口にした。
「…そっちも、美味いな。ほら」
代わりに、圭輔も英里に、自分が食べていたケーキをフォークで切り、彼女の口元へと運ぶ。
英里は少し躊躇いがちに口を開き、彼のフォークに口をつける。
「美味しい…です」
ほんのり頬を赤く染めた彼女も、口溶けの良い生クリームの味を堪能する。
こうやって、この部屋でケーキを食べていると、今年の自分の誕生日を、ふと思い出した。
その後、彼と…。
最初は、断片的な静止画だった記憶が、動画として脳内で再生されだすと、彼女の顔はますます赤くなってきた。
意識し出すと止まらず、もうケーキの味も良くわからない。
それを圭輔に気取られないように、俯き加減にひたすらケーキを頬張っていると、
「…英里」
急に、彼が彼女の名を呼び、英里の肩が小さく震えた。
下の名前で呼ぶのは、2人きりの時だけ。
…そして、彼が彼女を求めている時。
やはり、同じシチュエーションを彼も思い出したのだろう。
俯いた英里の顔を下から覗き込むように、圭輔は、そっと口付けた。
唇を重ねたまま、頬に手を添えて彼女の顔を上に向かせる。
舌に残る甘いケーキの味と、甘い感触に二人酔い痴れる。
圭輔は腕を英里の腰に回し、片腕で抱き締めるように彼女の体を自分の傍に引き寄せると、顎を反らせた彼女の白い首筋に口付ける。
彼の唇が、英里の喉元に触れる。
そのまま、鎖骨のあたりまで唇が下りていく。
英里は緊張で、微動だに出来ない。
緊張すると同時に、甘くて心地よい感覚が彼女の胸を満たし始める。
夕暮れの、静かな部屋の中、肌から唇を離す度に漏れる圭輔の息遣いが英里の耳に響く。
圭輔は腰に回していた腕を引いて、密着するほど近い距離に、彼女の体をさらに抱き寄せる。
「英里からも、俺に頂戴」
「えっ…」
突然話を振られて、英里は消え入りそうな程小さな声を上げた。
彼の意図していることはわかっている。しかし、それを実際に行うのは相当の勇気が必要だった。
恥ずかしそうに彼の瞳を覗き込むと、そろそろと彼の顔に自分の顔を近づけ、そっと口付けた。
控えめな、軽く触れる程度のキス。
それでも、圭輔は満足だった。
そういうところこそ彼女らしくて、ますます愛しく感じてしまうのだから。
何というか、彼女に触れられた部分から淡い喜びがじわじわと全身を満たしていくような感覚。
圭輔にとって、彼女とこうして愛し合う行為は、いつでも穏やかな気持ちではいられない。
刺激的過ぎて、どこかで枷を嵌めておかなければ、彼女を求めすぎてしまいそうになる。
唇を離すと、相変わらず頬を染めたままの英里が困ったような視線を彼に投げかけてくる。
だが、圭輔は何も喋らないし、行動も起こさない。
ちょっとした悪戯心と、そして好奇心。
このまま、自分から何もしなければ、英里は何をしてくれるのか…それを待った。
(ほら、もっと俺に英里を頂戴…)
目で語る、とでも言うのだろうか。
心の内での切望を隠すように外見はあくまで無表情を装って、彼は眼鏡越しの彼女の瞳を見つめる。
圭輔の視線に真っ直ぐ射抜かれて、英里は忙しなく瞳を動かす。
彼女は、こういう風にじっと見つめられるのは少し苦手だ。