第2話-5
「…いいのか?」
「え?」
「そこまで言われたら、俺もこのまま帰したくなくなるじゃないか…」
どくんっと胸が急激に高鳴る。
今、彼はどんな気持ちで、どんな顔で、この事を告げたのだろうか。
今更ながら、勢いでとんでもない事を口にしてしまったような気がするが、もう決めた事だ。
いずれ、こうなるのは極めて自然な流れなのだから、何も恐れる事はない。
「はい…」
消え入るような小さな声で、英里は返答するが、次の瞬間、額に鋭い痛みを感じた。
「いたっ!」
ぺちっと小気味良い音がする。
圭輔が英里の額を軽く叩いたのだ。
「なっ、何するんですか!?」
自分の決死の告白を蔑ろにされたようで、英里は運転席の男に食って掛かろうとする。
「とにかく、今日は大人しく寝てなさい。…倒れた時、ホントに心配したんだからな」
後半の声は切なげで、英里は彼が自分の身をどれほど案じてくれていたか痛感した。
「ごめんなさい…」
しゅんと俯いてしまった英里に、
「もうすぐ、誕生日だろ?」
「あ、そういえば…」
「もし、その時まで水越さんの気持ちが変わらないなら…」
そう言い掛けたところで、英里の家に到着した。
その続きをはっきりと聞きたかったが、圭輔が黙って車を降りてしまったので、英里もそれに従う。
英里の体を支えながら、エレベーターに2人で乗り込んだ。お互いにずっと無言のままだった。圭輔は玄関まで英里を抱えて行くと、彼女の母が二人を出迎えてくれた。
英里の母らしく、美しいが生真面目で、どことなく潔癖そうな印象の女性だった。
「先生、わざわざ送ってくださってありがとうございます」
「いいえ、とんでもありません。今日はゆっくり休ませてあげて下さい」
簡単に事情を説明した後、母と社交辞令程度の会話を交わし、圭輔はエレベーターの中で一人、思う。
(…今度も教師として彼女の母と会うのか、それとも…)
娘が教師と付き合うなんて、絶対に許しそうにない母親だ。
それでも、いずれその時が来るならば、絶対に認めさせると圭輔は密かに誓うのだった。
車に戻り、運転席に座ると、溜息を吐く。
熱のせいで頬をうっすらと赤らめ、潤んだ瞳で自分を見つめているのは、運転しながらも、時折横目で彼女の様子を窺っていた圭輔にはわかっていた。
自分の理性が保った事に、盛大な賛辞を送りたい気分だった。
7月半ば、試験も終わり、あとは夏休みを待つだけとなった。
しかし、彼女にはそんな事よりも重大なイベントが間近に迫っていた。
今週末の彼女の誕生日。
自ら言い出したとはいえ、頭に過るのはいつもそのことばかりだった。
今まで圭輔と二人きりになるのはいつも学校にいる時だけ。
その事が、今まで英里に何らかの安心感をもたらしていたのは事実だ。
もし、学校という場を離れて二人きりで会うのならば、その時は、圭輔はどんな姿を見せてくれるのだろうか。
圭輔は、今どんな気持ちなのだろうか。
そして、自分はどんな気持ちでその時を迎えれば良いのだろうか…。
「誕生日だけど…」
運転しながら、圭輔が話を切り出す。
あれ以来、彼は特に態度を変えることなく、普段通り英里と接している。
「はぃ!?」
突然、圭輔に話し掛けられて、驚いた英里は多少裏返った声を出してしまった。
「行きたいとことか、どっかある?」
「えっ、えーと……また先生の、家に、行きたい…」
正直、何も考えていなかったので、英里は咄嗟にこう答えると、
がくっと圭輔が脱力する。
「この前、悲惨さ加減見ただろ…?何でまた来たがるんだよ」
「でも、それ以外にどこも思いつかない…」
「ラブホテルとか?」
「なっ…!」
彼らしからぬ発言に、一瞬英里は絶句する。
「冗談。いつものお返し」
圭輔は皮肉っぽい微笑を浮かべる。
「…っ教師のくせに酷い!」
だんだんと英里もいつも通りの調子が戻ってきた。
そんな彼女の様子を見て、圭輔は穏やかな気持ちになる。
変に緊張されては、自分も居づらかったのだ。
会う度にうわのそらの英里を見るのが辛かった。
こんな事になるくらいなら、今まで通りの関係を続ける方が良い。
「…じゃあ、俺のボロアパートでいいんだな?」
「掃除、しといて下さいね?」
「…わかってるよ…」
微苦笑交じりの曖昧な表情を圭輔は英里に向ける。
圭輔のそういうところがたまらなく好きだと英里は改めて思うのだった。
今年の英里の誕生日は金曜日だった。
学校でいつもの日課を終えて、帰りに圭輔の家へと向かう。時刻は8時を過ぎていた。