第2話-3
―――それから、英里の家と反対方向へ10分程車を走らせた。
「…。」
アパートの前に立った英里は、しばらく声が出なかった。
「…だから連れてきたくなかったんだけどなぁ」
この期に及んで、まだ気まずそうに圭輔は自分の部屋のドアの前に佇む。
「ホンットにボロいですね」
ぐさりと英里の言葉が突き刺さる。
こういう時の彼女の言葉はとことん容赦ない。
中に入って、さらに英里は絶句する。
「きたなっ…」
狭い部屋に詰め込めるだけの荷物と家具が所狭しと置かれている。
本当に、寝るスペースしか確保できそうになかった。
壁や天井の染みが、相当年季の入った建物だということを物語っている。
「…こんなんでよく生活できますよね…」
思わずそう漏らした後、英里はしまったといった様子で口に手を当てた。
いくらなんでも、この発言は失礼に値するだろう。
申し訳なさそうに、彼の方を見ると、幸い怒ってはいないようだった。
「住めば都、って言葉にひたすら縋ればな…。あ、適当に座ってて」
彼女の暴言に対して返す言葉が見当たらないのか、半ば自嘲気味に圭輔は嘆く。
散々汚いといいながらも、英里は圭輔の暮らしぶりに興味が湧いた。
ここで圭輔が寝起きして、生活していると思うと何だか落ち着かない。
部屋自体が狭いせいで、物が溢れているような印象を受けたが、よくよく見ると、必要最低限以外の物はなく、スペースを上手く利用しているようにも思われた。
(男の人の一人暮らしって、こんな感じなんだ…)
そわそわとあたりを見渡していると、
「…何か飲む?」
まだ、少し恥ずかしそうにしている圭輔が、英里に話し掛けた。
「いいえ、すぐ帰りますからお気遣いなく…」
立ち上がりかけた次の瞬間、英里の耳に微かに声が聞こえた。
最初は、聞き間違いだと、内心の動揺を隠したまま、英里は気付かないふりをして座っていたが、最早疑いようがなかった。
静かな部屋で、耳を澄まさなければ拾えない程微かだが、間断なく聞こえる艶かしい、女性の喘ぎ声。
あんな声を出す時なんて、知識の浅い彼女でも考えられるのはあの時しかない。
でも、こんな時間から…。
正座をして、膝の上に置いていた拳をぎゅっと握り締める。
どうすればいいのか、恥ずかしくて顔が耳まで真っ赤に染まっているのが自覚できた。
気付かないふりをし続けるもの限界で、困ったように視線を泳がせながら、英里は圭輔の方に顔を向ける。
「お隣、新婚さんらしくて…ボロいから、その、筒抜けでさ…」
当然、気付いていて顔を赤らめた圭輔が、ますますやるせなさそうに口を開く。
「先生も、毎日大変なんですね…」
心底、同情した顔で英里は頷く。
「私達も、対抗して聞かせてあげましょうか?…な〜んて、嘘で…」
英里の言葉が途切れる。
「す…」
それぐらい、瞬間的だが、圭輔の熱い視線を感じたのだ。
緊張で、息が詰まる。
時間にしたら、一秒にも満たないほんの一瞬の刹那。
だが、英里にはもっと長い時間のように感じられた。
…静寂を破ったのは圭輔だった。
「ははっ、冗談、だよな…」
「そうですよ…!」
二人で苦笑いを浮かべる。
「あ、もう遅いし、帰りますね…」
「じゃあ、送って…」
「大丈夫です!先生の家から、駅、近かったし…私、道覚えてますから…」
「そうか…?」
「はい、また明日…」
英里は微かに引き攣った笑みを圭輔に向けて、ドアの外へと去って行った。
ドアが完全に閉まった後、圭輔は力が抜けたようにドアに額を押し付け、舌打ちする。
あまりの自己嫌悪で気分が悪い。
相変わらず隣から響く嬌声も、不快なノイズとして襲い掛かる。
不意に剥き出しになった自分の欲望を英里に知られてしまった。
はっきりと口には出さずとも、彼女が自分に警戒心を抱いたのはよく分かった。
恋人同士とはいえ、自分は教師で彼女は生徒…加えて5つの年齢差。
その観念が、特に意識をせずとも彼の理性に歯止めを掛けていた。
しかし、最近越してきた隣人の新婚夫婦。
あの声が彼の抑えていた部分を呼び覚ましたのだ。
毎夜、耳に入る嬌声。
頭の中で、いつの間にか自分と英里の姿に重ねてしまっている。
英里を自分の腕で抱き、自分の思うままに啼かせてやりたい。
そんな思いが鎌首を擡げ始める。想像すると止まらない。息苦しい。
その片鱗は、決して彼女に見せてはいけなかったというのに。
(俺って、バカだな…)
…圭輔は深い溜息を吐いた。
電車の中で、英里は一人、項垂れる。
あの場を和ませようと思って、口にしたほんの冗談だったのに。
彼女は初めて、自分のひとりよがりな思いに気付いてしまった。
…彼は、自分を求めている。
そう思うと、体が熱くなる。心臓が早鐘のように鳴り響く。
ずっと、我慢してくれていたに違いない。
それなのに、あんな軽口を叩いてしまって、圭輔の心を掻き乱してしまった。
(私って、本当にばか…)
帰り道、突然の雨が降り出した。
当然、傘など持っていない。
濡れても構わず、ただひたすら家を目指す。
ずぶ濡れの彼女の姿を見た、母の怒声を背に受けながら英里は自室へと向かい、そのまま、ベッドに倒れこんだ。
翌日の学校。朝から何だか体がだるい。
「英里、顔赤いよ?大丈夫?」
隣から心配そうな顔をした友人が覗き込んでいる。
「へ?だいじょうぶ、…」
そう言った次の瞬間、天地が逆さまになる。
ひどく焦った友人の声が、何だかとても遠くで響いた…。