第1話-11
それから図書委員で1人カウンターにいる間も、気分が晴れずに、時刻はいつの間にか8時を回っていた。
大半の生徒が帰ってしまった校舎は、しんと静まり返り、ひっそりとしている。
戸締りを終えた英里は、図書室の鍵を返しに、職員室へと向かった。
「失礼します」
静かに挨拶をして中に入ると、そこには頬杖をついて眠っている圭輔の姿があった。
彼の教育実習期間は明日で最後なので、いろいろと提出物のまとめをしているうちに、つい眠ってしまったようだ。他に教師の姿はない。
「先生なのに、居眠りしてる…」
その無防備な姿を見て、英里は思わず微かな笑い声を漏らす。
圭輔を起こしてしまわないように、息を潜めてデスクに近付く。寝ている顔はあどけなくて、何だか可愛らしかった。
それまであんなに苦い思いを抱いていたのに、彼の顔を見ただけで、満たされた気持ちになる。
本当に現金な人間だな、と自分自身で思いながら、彼の整った横顔を眺め続けていると、不意に唇に目がいった。
彼にとっては不慮の事故で、自分にとって最初は単なる気まぐれ、というか悪戯だった。
自分からキスしてしまった時の感覚は、ほとんど覚えていない。
体が熱を持ち始め、緊張で両手が汗ばむ。ばくばくと心臓の鼓動がうるさい。
これ以上近付いたらだめなのに、彼の薄く開かれた唇から目が離せない。
キスというのはどんな感じがするのか、今なら知りたい…。
(先生、最後にもう一度だけ、許して下さい…)
そう心の中でそっと謝罪し、英里がゆっくりと頬に触れようと手を近づけた途端、運悪く圭輔が目を覚ました。
「んん…」
眠たげな声を上げながら、ゆっくりと目蓋を開く。
(やば…っ)
伸ばしかけた手を引っ込めて、慌てて立ち去ろうとした英里は、隣の机の角に足をぶつけて倒れそうになった。
「ぁっ!」
「危ない!」
「っ…!」
転けると思い、床に打ち付けられる痛みを覚悟して、奥歯を食い縛った。
だが、衝撃は何もなかった。そっと目を開く。
咄嗟に、圭輔は腕を伸ばして、バランスを崩した英里の体を強く引き寄せたのだった。
もし、誰かに見られていたら言い逃れはできなかったかもしれない。
傍から見たら、教師が生徒を抱きしめているようにしか見えなかったのだから。
英里の体はまるで凍ってしまったかのように動けなかった。
男性とこんな風に体が密着したのは、生まれて初めてだったのだ。
腰に腕を回し、片腕で軽々と自分の体を支えている彼が、今まで以上に男を感じさせた。
彼の匂い。鼓動、息遣い。節くれだった大きい手、引き寄せる力強さ。
うるさいぐらいに心臓は動いているのに、意識すればする程、体は固まったままで動き出せない。
―――ふぅ、と圭輔はひとまず安堵の息を吐く。
さらさらとした英里の長い髪が揺れて、微かに圭輔の頬を掠める。
「大丈夫か…?」
「あっ、は、はい…ありがとうございます」
圭輔の吐息を背後に感じ、びくっと英里は肩を震わせた。
その拍子に、止まっていた時間が動き出す。
「そっか、無事で良かった」
背後から英里を包み込む、柔らかい圭輔の声。
きっと同じ位優しく微笑んでいることだろう。
緊張と羞恥のあまり、体温がぐんぐん上昇する。顔が、熱い。
背を向けているお陰で、自分の顔が見られなくて本当に良かったと英里は心底思った。
「は、離して下さい」
「あ、ごめん…」
勢い余って、思いっきり彼女を抱き締めてしまっていたのだった。圭輔は慌てて英里の腰に回していた腕を引いた。
気まずい沈黙が流れる。英里は圭輔に背を向けたまま、動けなかった。
眠っている彼に触れようとしてしまった罪悪感もあり、俯いたままそそくさとその場を立ち去ろうとする英里に圭輔は声を掛けた。
「帰るのか?遅いし一人で帰るのは危ない…」
「大丈夫です。走って帰りますし…」
突然の出来事に英里の頭はすっかり混乱して、わけのわからないことを口走ってしまう。
「だけど…」
「……本当に平気ですから、もうほっといて下さい!」
これ以上、惨めな自分を見せたくなくて、背を向けたままぴしゃりと言い放ってしまう。
思わず、英里は唇を強く噛んだ。
そんな自分の性格が呪わしくて仕方なかった。
「…あっそ。じゃあ、サヨウナラ」
突慳貧な態度に、少し気を悪くした圭輔は、軽く嘆息して、彼女から顔を背ける。
再び椅子に座り直すと、レポートのまとめを再開し始めた。
1メートル程離れたところに突っ立っていた英里は、振り返って呆然と彼の横顔を見つめていた。
胸の内には当然、激しい後悔が渦巻いていた。
明日で最後だというのに、こんな態度しか取れない自分が憎くて堪らなかった。
この気持ちは捨てると決めたはず。どうでもいい、早くここから離れないと。
でも、もう二度と会えなくなるかもしれないのに。
心の中の鬩ぎ合い。
(これで、このままで別れていいの…?)
そんなの嫌だ。そう思ったと同時に、勝手に体が動いていた。
「先生…ッ!」
英里は、後ろから圭輔の首に腕を回す。
「え…?」
切羽詰ったようなその声に反応して、後ろを振り向いた圭輔の顔に、英里は顔を寄せる。
次の瞬間、二人の唇が触れた。
あの時の感触。圭輔は驚いて目を見開くと、英里の表情が瞳に映る。
目を瞑った彼女の顔が間近にある。
長い睫毛に縁取られた白い瞼がふるふると揺れていた。
気付けば、彼女の手もかたかたと小刻みに震えている。
そんな英里の様子に、圭輔は目を細める。
勢い余って、彼の唇より少し上の部分に触れた英里の唇。
結局、2度目の今も英里に彼の唇の感触を確かめられるような余裕は全くなかった。
こんな事をして、決定的に彼に嫌われただろうなと思う反面、その方が気持ちを断ち切りやすくなるだろうとも半ば自暴自棄になっていた。
もう、これで最後。本当にさようならだ。