疲弊と快楽と-4
キーボードから手を離し、佐伯にメールを打つ。『今日、会いたい』と一言だけ。返事はすぐに届き、真夜中の約束が成立した。
意識を切り替える。昼過ぎまでかかって、どうにか企画書を完成させた。週末の締め切りまでにまだ時間はあったが、さっさと提出しておかないとまたバケツ一杯分の嫌みや文句をねちねちとぶつけられるはめになる。誤字やおかしなところがないか何度も確認し、部長にデータを送信した。
少し休憩しようと立ち上がると、勢いよく教室のドアが開いて「学校が早く終わったから」と小学生の子供たちがなだれ込んできた。授業外でも自習スペースとして教室を開放しているので、子供たちは友達と連れ立って学校帰りにそのままやって来ることがある。勉強半分、遊び半分の彼らの相手は楽しく、飽きることが無い。
「あのね、今日は○○くんが学校で怒られていたよ」
「△△先生が理科のときにおもしろい話をしてくれたんだ」
「給食がお魚で、全然おいしくなかった!」
我さきにとマヤにしがみつくようにして、子供たちが学校であったことを話し始める。母親よりも年下のマヤは、彼らにとって姉や友達のような感覚なのだろう。
「あはは、そっかー、みんな元気だねえ。よし、ちゃんとお席に座ってからお話きいてあげる。誰が一番はやく座れるかな?」
きゃあきゃあと嬌声をあげながら、小さな体が次々に転げるようにして椅子にしがみつく。弾む呼吸、揺れるランドセル。子供たちの真ん中に座り、マヤはその可愛らしい声に耳を傾けた。
夕方、教室に集まり始めた講師たちに小学生の相手を交替してもらい、事務スペースに戻ってパソコンのメールを確認する。部長からの返信は無い。通常、企画書などのファイルを送信した場合、受け取った側が確認のメールを送信することになっている。送信済みのメールには、ちゃんと送信できた記録が残っている。
念のため、と再度企画書のデータを送信する。部長のところに届くメールの数は膨大なので、他のメールに紛れて気付かれなかった可能性もある。送信できたことを再確認して子供たちの元へと戻った。
「あれっ、水上先生、疲れてる? 目の下、クマできちゃってるよ」
40代の女性講師、田宮が心配そうに言う。彼女は元中学の教師をしていたという経歴で、指導もしっかりしており、教室業務にも協力的なのでいつもマヤは助けられている。
「ああ、昨日、ちょっと眠れなくて……」
「そっか、そんな顔してたら久保田先生が心配しちゃうよ? うふふ、若いって良いよねー!」
「ええ? 久保田先生が?」
昨夜のことが蘇る。田宮の言い方がひっかかる。
「だって、久保田先生って、絶対に水上先生のこと大好きじゃない。もうさ、目が違うのよ、目が。水上先生のこと見るとき、あの子の目の中ハートマークがいっぱいよ、今度見てごらん」
返事に困っていると、通りかかった別の女性講師、雪村が田宮をいさめてくれた。
「もう、あんたはまた余計なことばっかり。ほらほら、水上先生困ってるじゃない。そんなねえ、職場で恋愛関係なんか持ち出されたら、ややこしくって仕方無いじゃない。自分がモテないからって、ひがまないのよ! さ、もうすぐ授業始まるわ、行きましょう」
雪村は田宮の紹介でやってきた講師で、田宮とは中学生の頃からの友人らしく非常に仲が良い。田宮の悪気ない軽口を適当に収めながら、マヤに片目をつぶって笑って見せた。笑顔を返しながら、ふと不安に駆られる。これまでそんなに意識してこなかったが、久保田の態度はそんなに傍目から見てもわかるほどのものだったのか。
彼の気持ちが嬉しくないわけではないが、余計な問題を増やしたくは無かった。教室ではあまりそういう態度を表に出さないように、釘をさしておいたほうがいいかもしれない。