疲弊と快楽と-3
母親はぐずぐずと鼻をすすりながら機関銃のようにまくし立てる。ある程度の年齢を過ぎた女の涙は醜いだけだ、とマヤは思う。母親の息子を思う気持ちはわからないこともない。でも今の社会は、この母親の世代が生きてきた時代とは違う。『将来性のある安定した企業』だったはずの会社が、突然潰れるケースなんてゴロゴロしている。たしかに芸術の世界で生きていくのは厳しいだろうが、もしも親の言われるままに自分の考えを曲げてまで進んだ道の先で奈落の底に落ちたとしたら、子供は親に対して恨みしか残らないだろう。どっちにしたってぼんやりしたままで掴める幸せなど、もうこの世のどこにもないのだ。
それはタケルに限らない。男も、女も、みんな同じ。もちろん、マヤ自身も。
だからといって、この手の母親に「子供の好きなように生きさせてあげたらどうですか」とは口が裂けても言えない。こういう母親は、たいていの場合『相談』に来ているわけではなく、単に同意を求めているだけである。
「ねえ、先生、わたしの考えが間違っているんでしょうか!? 主人も最近ではわたしの言うことなんて聞き流しているみたいだし、息子はもう近寄ってこようともしないし、部屋にこもってゲームばっかりしているみたいだし……」
気持ちを昂ぶらせる母親の厳しいまなざしを微笑みで受け止める。目尻を下げ、緩やかに頬を上げて、優しげな表情を作る。
「そうですか……タケルくんも難しい年頃ですしね。中学生から高校生くらいのお子さんのお母様たちは皆、困っていらっしゃるようですよ。タケルくんはこちらで見ている限りでは、非常にしっかりした生徒さんです。進路のことも、まだ2年生ですし、いろいろと模索している途中ではないでしょうか。学習面では、いまのところ大きな問題もありませんし、タケルくんの気持ち次第ではお母様の希望されるような進路を選ぶこともじゅうぶん可能です」
子供を『しっかりしている』と誉められて、母親の顔がパッと輝く。子供を誉められて嫌な気持ちになる親はいない。ほとんどの母親に共通している反応。
「本当ですか? まだ、息子の気持ちさえ変われば、芸術以外の大学への進学も大丈夫なんですね?」
「ええ、模試の結果からいくと問題無いと思います。ですので、少し様子を見ながらご家庭でゆっくりお話をされてみてはいかがでしょうか。もうすぐ学校でも個人面談があると聞いています。そのときに担任の先生も交えてお話されるのもいいかもしれないですね」
「ああ、そういえば……そうですね、学校ではまたあの子も違うことを言っているのかもしれないし……あ、すみません、そろそろ仕事なので。突然来てしまって申し訳ないです、先生。また、うちの子のことをよろしくお願いします」
「いえいえ、いつでもお待ちしております。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
そそくさと慌ただしい様子で母親が出て行った後、マヤはホッと肩の力を抜き、椅子の背もたれに体を預けた。
ああ、びっくりした。
再びパソコンに向かってキーを叩きながら、父親たちとの関係が発覚したのではなかったことに心の底から安堵した。彼らはうまくやってくれている。家庭を壊さないように、自分の身をしっかりと守れるように。社会的な立場もある彼らにとって、不倫がバレた末に離婚に追い込まれるなどという不名誉な事態はなんとしても避けたいに違いない。
タケルの顔を思い浮かべる。くせの強い茶色の髪、色素の薄い肌にくりくりとした小動物のような瞳。誰にでも愛想が良く、女の子たちにも人気がある。あの母親にはあまり似たところが見当たらない。強いて言えば、頑固なところが似ているだろうか。
タケルの父親を思い浮かべる。それは教室を訪れるときのかしこまった姿ではなく、ベッドの上でマヤと戯れるときの荒々しい姿。妻に対しては一度もあんなことをしたことはないという。
思い出すだけで肌の内側が熱を持ち始める。ため息が漏れる。