春の雷-1
三月の朝は、曇天のせいで酷く暗かった。
柳生は仄白く映る桜のはなびらを落とすだけの雨に目を伏せ、多分の湿を含んで重い本を取り上げた。そして、気紛れに頁を繰る。
長い月日に焼けた紙の端が擦れて、かさりと音を立てる。静寂の張りつめたこの部屋では、その音はやけに大きく響いた。
「くぅん…」
老いた飼い犬が、慰めのような声を上げる。
彼を見やって、柳生は唇の端で笑った。眼鏡の奥の目が、撓んだ枝先のようにしなやかに細まった。
「心配はいらないよ」
はらはらと降る雨音によく馴じむ声が、ゆっくりと結ばれた痛ましさを解く。
白い老犬は暫く柳生を見つめてから、何も云わずに窓際に寄った。そして器用に前脚を肘かけについて、そこに置かれた安楽椅子に乗り上がるようにした。折れた脚が一本、布で巻かれた椅子は、ぎちっと低い音を立てた。
濡れた鼻先を結露した窓硝子に擦りつけて、犬は遠くを眺む。
「…無駄だよ」
期待に大きく揺れる白い尾を嗤って、柳生は用を為さない古書を閉じた。そんなことでは紛らすことの疼痛が、蟀谷を打つ。
窓辺のものと対になっている椅子の背に、深く身体を預ける。
遠くあなたで、膨らんだ空気の唸る声が聞こえた。老犬の尻尾が強張る。
「こっちへおいで」
思いがけないほど優しく呼びかけながら、柳生は掛け馴じんだ眼鏡の蔓に指先で触れ、耳から引き抜いた。
すっと曖昧になった世界に、白い輪郭が幽霊のように溶ける。
彼は抗う術を持たぬように、静かに佇んでいる。濡れた目が、じっと柳生を見つめる。
思慮深く、頭骸骨の裏までをも見透かすような視線。
柳生は哀れまれていた。
さっと頭に血が昇る。
どうしようもない憤りのまま、手許にあった表紙の厚い本を投げる。
「彼女はもう帰らないさっ」
その瞬間、ざっと灯りが落ちた。
落雷による停電。
暗がりの中に闇。
慣れない目には、黒い深淵だけが映った。それは広がったり縮んだり、得体の知れない生き物のように、柳生の神経を侵す。
「ああ…」
暗闇は、人に幻覚を見せる。
甘やかに薫る、彼女の匂い。
喉の奥がきゅっと痛む。呼吸がうまく出来なくなる。じんと広がる、痺れる恍惚感。
伸ばした指先が、側にある小机を倒した。机上のものが、ばらばらに散らばる。
彼女から贈られた時計、先刻まで読んでいた古書、そして淡青色の小瓶。
柳生の精神安定剤。
けれど彼は拾い上げたりしない。
彼女の指が自然な仕草で、大きく波打つ喉を捕える。喉骨の上で両の親指を合わせ、ゆっくりと押す。
かつて柳生がしたように、優しく絞める。
春の雷を近くに聞きながら、柳生はただ温かな涙を流していた。