.19 太田塁-1
俺の見立てでは、一番酒に弱そうな矢部君が実は酒豪で、俺が一番始めにへばると思っていた。
が、見当違いだった。至は酒を呑んでも呑まなくてもテンションが高くて、潰れるとかそういう言葉は辞書になさそうだ。拓美ちゃんもそれにつられて結構飲んでいる。こいつらはお似合いだ。二人の世界に入り込んでいる。
智樹は静かに、だけど結構な量を呑んでいる。こういうのを酒豪と言うのか。顔色一つ変わらない。言葉も少ない。
そして矢部君。期待を裏切って、酎ハイ一杯で顔を真っ赤にし、さっさと部屋を出て行ってしまった。まさかゲロでも吐いてるんじゃないかと心配に思い、女子トイレに向かって声を掛けてみたが、返答は無かったので、とりあえず胸を撫で下ろした。
風にでも当たりに行ったのかと、部屋の窓から外を覗いてみたが、姿は見当たらない。
「ちょっと風に当たってくる」
そう智樹に告げて俺は一階に降りた。宿泊客の少ない宿はこの時間、廊下を歩くだけでスリッパの音が響く。風呂場の前を通り過ぎ、玄関にたどり着く。玄関を出てすぐの所に、あいつは座っていた。俺は横に立った。
「あ、塁......」
俺を見上げる眼鏡を外した顔は、頬が真っ赤になっている。酒のせいである事は分かっている。
「普通に喋れるか?」
俺は立ったまま、目を逸らしてぶっきらぼうに話しかけると「話は大丈夫。でも顔が火照っちゃって、外にいた」と言う。
「隣座るぞ」と承諾も得ずに座った。玄関を背にして、目の前には真っ暗な海が潮の音だけを響かせている。音と共に風が潮の匂いを運んでくる。
暫く沈黙していた。俺も少し酔っていたので、夜風が気持ち良かったのもある。だが、それだけではなかった。何から話せばいいのか。こいつに聞きたい事は山程あった。ちらと見た横顔は、少し笑みを湛えている様で、目線は海に向かっている。あまり警戒している様子はなく、話しやすいと感じる。
「なぁ、お前、何で男が嫌いなの」
目線は合わせないようにして訊いた。きっと俺が目線を無理に合わせようとすると、あの瞳に変わって、すぐに彼女は目を逸らしてしまうからだ。彼女は少し下を向いて「中学の頃、色々あってね。まだ人に話したくない事だから、話せない」と言った。
「性的な、事か」
俺はあてずっぽうで言ったが、男嫌いになる理由なんてそれぐらいしか、思い浮かばなかった。彼女は俺の方をちらっと見て、口端に笑みを浮かべ俯いた。きっと、正解なのだろう。
「お前のあの目、全然描けないんだよな。ほんの一瞬しか見えないからさ。なかなか記憶に残らなくて」
聞いているのか聞いていないのか、ゆっくり頭を揺らして笑っている。
「聞いてる?」
「聞いてるよ、全部」
彼女は丸めていた背を伸ばし、身体の横に手をつくと、紺色の夜空を見上げた。
「みんな優しいから、怖くなくなってきてるんだよ。今日だって、智樹君に手を握られたけど、我慢できた。みんな、優しいからさ」
俺は面白くなかった。智樹に手を握られる事で測られる尺度なんて、面白くない。
「優しくなんかねーよ、少なくとも俺は」
足元にあった小さな石を、砂浜に向かって投げた。結構遠くまで飛んだように思う。あいつだったらどこまで遠くまで投げられるだろうか......。
「俺、ちょっと変なんだ。お前にだけ言っておく」
矢部君は「へ?」と首を傾げて俺の顔に視線を寄越した。眼鏡を外し頬を赤らめたその顔は、二倍増し位には可愛く見える。
「女に興味ないんだ。でもホモでもない。ただ......」
この先を口にする事で自分自身を苦しめる事になるかも知れないのは分かっている。それでも、あいつとの関係を表現するためには、これしかないのだ。
「智樹の事が、好きなんだ」
俺の顔を見つめていた瞳が一気に広がり「ほんと?」と殆ど聞こえない位の小さな声がした。内緒話をする時のように。
「ほんと。初めは敵対心だったんだ。そのうち、追いつきたい、肩を並べたい、アイツの隣に居たいって思うようになって。アイツ、何でも出来るんだよ。モテるし。だから、アイツと肩を並べようと努力する事が俺にとっての愛情表現みたいなものなの。ちょっかい出して、諌められるのが嬉しいの」
横を向くと、難しく眉根を寄せたまま空を見上げる矢部君がいた。
俺も同じように横に手を置き、空を見上げた。その手を、彼女のそれと重ね、握った。
「それを聞いた後でも、やっぱり俺の事、怖い?」
もう少し強く、彼女の手を握った。すぐに手を引っ込めるんじゃないかと思ったが、そんな事はなく、彼女は首を横に振った。
「大丈夫。多分今の話を聞く前から、塁とは大丈夫だったんだと思う。塁は優しいから。塁が、私を変えてくれてるんだよ」
空に向けた顔はまんじりとも動かない。俺には言葉だけが降ってくる。
「その言葉、何か中二っぽいぞ」
横顔が、思いっきり笑顔に変わるのを見て、俺は複雑な思いに駆られた。
俺は、智樹が好きだ。だけどコイツの事も好きなのかもしれない。コイツの中にある傷を知りたい。それを癒したい。そして、こうして手を繋いでいたいと思う俺がいる。
数年間、俺には興味が無かった「女」という性に対する気持ちに、俺は狼狽した。
彼女は俺の手を払いのける事無く、俺に手を握られたままずっと空を見上げている。
玄関の奥に、人の気配を感じたが、俺は敢えて後ろを振り向かなかった。