南風之宮にて 1-3
「ハヅル」
ごく静かな呼びかけだったのだが、その声はハヅルにしかわからない程度の、かすかな刺を含んでいた。
幼なじみのアハトである。黒髪の少年は、アイサには一瞥もくれずにハヅルを見ていた。
「アハト、何か……」
「これはこれは、ケイイルのアハト殿」
頭上から、ちっと舌打ちの音がした気がして、ハヅルは青年の天を衝くばかりの長躯を見上げた。
アイサは一転、優雅な仕草で会釈した。
「お元気そうで何よりです」
「ああ」
アイサがアハトを気に入らないらしいことはハヅルも知っていた。
彼がシアの傍系の若手筆頭として、次期頭領にハヅルを強く推していたためである。
シアの当主であるハヅルの祖父、サケイ当人がアハトを推挙したので、彼らにはそれ以上文句も言えず、諾々と従うこととなったわけだが。
だがアイサの場合、まだ頭領の息子が存命で後継者争いなどなかった時代……まだか弱かった幼少期にアハトをいじめようとしていたこともあった。
つまり、理由は後付けであって、単に虫が好かないだけなのかもしれない。
その幼少期のいじめは大概が未遂に終わっている。
アハトのそばにいつもハヅルがいたからだ。アイサはシアの次期当主であるハヅルには頭が上がらないのである。
そんな間柄なので、当然アハトもアイサを良くは思っていない。
四頭家の一つケイイルの当主となり、さらに次期頭領と決まって、立場が上になったからといって、嫌がらせをするほどアハトも子供ではないが、好きこのんで友好的に接したりもしなかった。
彼はアイサの慇懃な挨拶に、にこりともせず言った。
「頭領に用なのだろう。無駄話をせず、早く入ったらどうだ」
「そういうアハト殿は、頭領にご用ではないのですか。どうぞ先にお入りください。わたしはハヅル様とお話しながらお待ちしておりますゆえ」
「俺は違う」
アハトはすげなく答えて、すぐにハヅルに向き直った。
「ハヅル。姫がお呼びだ。早く戻れ」
「姫が?」
なんだろう、とハヅルは首をかしげた。
「ほう。ケイイルの当主殿ともあろう方が使い走りとは」
自分のことは棚に上げて、アイサは嫌みたらしい言い方をした。
「王に謁見された帰りにすれ違って、直々に頼まれたんだ。ほら、ハヅル」
アハトは淡々と言って、ハヅルの手をつかんだ。
彼にしては珍しく乱暴なやり方でぐいと手を引っ張られる。ハヅルは引かれるままアイサから引き剥がされた。
アイサは一瞬むっとしたように鼻にしわを寄せたが、ハヅルが振り返るころには笑顔に戻っていた。
「それではわが姫、名残惜しいが務めを果たして参ります。また後ほどお会いしましょう」
彼はひらひらと手を振ってみせてから、会議の間に入っていった。