10-1
「帰りは二十二時ぐらいになるかな。夕飯はいらないから。遅くなるようなら電話するよ」
「うん、いってらっしゃい」
彼は私の頬に触れるだけのキスをすると、玄関を出て行った。いつものシャンプーの香りが少し香った。
少し経つと車のエンジン音が聞こえてきて、窓からちらりと見ると、運転席にいるのは男性だった。
お酒が飲めない友人の車で行き帰りをすると言っていた。安心だ。
夕食の準備をし、義母を呼ぶと、携帯で電話をしているところだった。
「すみません、お電話中に」
義母は手を左右に振って「いいのいいの」と言いながら席についた。
「東京にいた時からの友達でね。ちょっと話に花が咲いちゃって」
余程楽しかったのか、笑顔が顔に張り付いているように、ずっと笑っている。
「あれ、総司は?」
きょろきょろと見回す義母は、彼の行く先を知らなかったらしい。同級会である事を伝えると、彼女の顔が一気に曇った。
「大丈夫かしら......」
私は何の事かさっぱり分からず、から揚げを口に運んだ。引き上げるタイミングを間違えたから揚げは二度揚げになってしまったが、これはこれでカリカリとしていておいしい。嚥下してから「何がですか?」と改めて訊いてみた。
「女が寄ってくるんじゃないかと思って。あの子に限って悪さはしないと思うけど、あの子の周りは何と言うか......積極的な子が多くてね、昔から」
眉間にしわを寄せながら義母はそう言うので、心配になってきた。少し、動悸がした。母親が心配するような女たちとは一体。
陽子のような人間が沢山いるという事だろうか。お隣さんの事を話題に出すのはどうかと思いつつも、思い切って訊いた。
「陽子さんと総司は何か関係があったんですか?」
義母の顔が一段と曇った。「あれは関係というより間違い」きっぱりと言った。
お新香をつまみ、ご飯を一口食べると、モグモグしながら「総司には内緒にしておいてね」と前置きをした。
「総司曰く、陽子にレイプされたって。おかしな話でしょ?」
私もすぐに意味が飲み込めず、「はぁ」と返事にもならない声が出てしまった。蛍光灯にハエがぶつかる音がした。
「要は、無理矢理関係に持ち込まれて、総司も男だから結局最後までしちゃって、挙句。妊娠させちゃったの」
手に持っていた箸を二本とも落としてしまった。乾いた音が床面から跳ねてくる。
義母は「ごめんね」と言って箸を拾ってくれたが、私は身体が固まって動けなかった。
「勿論中絶したし、陽子ちゃんの今の子供は健君との子に間違いないんだけどね。過去に。過去にそういう事があったの」
義母に拾ってもらった箸をうまく握る事が出来ない。自分の周りだけ酸素が薄くなったようで、呼吸すら、危うい。
「変に優しい所があるでしょう、総司って。それを捉え間違えるんだよね、女どもがさ」
吐き捨てるように言う義母は、苦虫を噛み潰した様な顔をしていた。
私は一度深呼吸をし、「大丈夫、ですよ」と、とぎれとぎれだが言った。
「明日、仕事ですから遅くならないでしょうし。遅くなりそうなら電話も来るでしょうし」
そうね、と言って食事を再開した。
息子の事をよく理解している母なのだと感じる。息子の周りに集まる女どもの生態も、だ。自分の両親を亡くしている私は、早くこの義母に、新しい母に、孫の顔を見せてやりたい、そう思った。
二十二時を回った。私は車のエンジン音が聞こえたらすぐに迎えに出られるように、玄関に近い、広い座敷で雑誌を読んでいた。義母は既に寝てしまった。
石油ファンヒーターをつけているが、座敷は広く、なかなか温まらず、雑誌をめくる指が凍えて来た。石油ファンヒーターを自分の真横に持ってきて、温風に当たりながら待った。
なかなか帰って来ないので、カーディガンを手に玄関まで出て引き戸を開けてみると、丁度、正面から車のライトが坂を上ってきた。ホッと胸を撫で下ろした。
十一月なのに、都会だったら雪が降るかもしれないと思える、痛いぐらいの風が吹きすさんでいる。
坂を上ってきた車には見覚えがあった。隣の、岩谷家の車だ。助手席のパワーウィンドウが、蛇が舌を巻く様な音を立てて下がり、中から陽子が顔を出した。
「旦那さんならまだだよ。今頃女に囲まれて......」
運転席から「陽子!」と叱責する声が聞こえた。健さんだろう。私は無言で彼女の言葉を待った。
「とにかく、まだ帰らないと思うよ。そんな寒い所で立ってたって」
パワーウィンドウが上がり、車は隣の車庫へ入って行った。
いや、もう少し待てば、友人の車で帰ってくるだろう。私は座敷に戻り、再び雑誌に目を落とした。しかし、陽子の言葉が頭から離れない。
「今頃女に囲まれて」
ファンヒーターの温風で少し温められた携帯電話を手にし、一番先頭に出てくる総司に電話を掛けた。一度、二度、三度。出ない。コールはするものの、留守番電話サービスに接続されてしまう。
そのうち遠くから車のエンジン音が聞こえてきたので私はカーディガンも羽織らず玄関を乱暴に開けた。またしても痛く冷たい風が容赦なく身体にぶつかる。
夕方見たあの車。間違いない。やっと帰ってきた。
そう思ったのだが、無常にも車は家の前のカーブを曲がり、走り去って行った。
総司は......。
携帯の着信に気づいたら、すぐにでも掛け直してくれるだろう。不安に思いつつも、自分を自分で安心させるしか、今は策が無かった。寝そべりながら雑誌を見るともなしに捲った。