『お父さま』に反抗-4
――いつからスラム街にいたのか、よく覚えてない。
華やかなシシリーナ王都の裏側……皆が気付かないフリをして目を背ける、汚く悲しい社会の掃き溜めで、這いずって生きていた。
親の顔なんか、とっくに忘れてしまった。
もうお前に食わせるパンを買う金はない。と言って捨てた親も、名前だけは無料だからつけてくれた。
『天使(アンジェラ)』
神のお恵みがあるように、だって。
ふざけるにもほどがある。
騙して盗んで奪い取って、とにかく必死で生き残った。
そしてあの日も、空腹に耐えかね、パンを一つ盗んだ。
いつものように、素早く逃げ切れるはずだったけれど……。
『いつも盗みやがって!!捕まえたぞ!!』
パンの間に仕掛けてあったネズミ捕りに、指を挟まれた。
他の子たちはなんとか逃たけれど、アンジェラは痛みに遅れた所を捕まえられた。
『子どもだからって、もう容赦しねぇ!盗人の焼印を押してやる!!』
怒り狂ったパン屋は、釜に入れて真っ赤に熱した金バサミを見せ付ける。
必死で、ごめんなさい。と繰り返しても、許してもらえなかった。
周囲に止めようとする人もいない。
スラムの子どもが殺されるのなど、日常茶飯事だ。
『お前みたいな、どうしようもないクズは、顔を焼かれて思い知れ!』
恐怖に目を背けることすらできず、恐ろしい熱が近づいてくる。
『まぁ、ちょっと待ってくれるかな』
頬を焼かれる寸前、パン屋の腕を一人の神父が止めた。
赤い髪をした、穏やかな人好きする顔の神父は、まだそこそこ若いようだった。
彼はパン屋に金貨を一枚渡し、アンジェラを放してくれるよう頼んでくれた。
パン屋の外に出ても、神父はアンジェラの手をとったままだった。
『おじさん。わたしで遊びたいから、助けてくれたの?』
おそるおそる尋ねてみた。
やせっぽちだったから、『そういう事』をされたことはまだなかったが、他にやっている子はいっぱいいた。
中には帰って来ない子もいたけど、運が良ければ、お菓子や小銭も貰えるらしいと聞いたことがある。
神父は困ったように頭をかき、苦笑した。
『君が思っているような【遊び】には、あまり興味がないんだ』
『ふぅん』
『君、名前は?』
『……アンジェラ』
『天使(アンジェラ)か。なのに、君はよく盗みをするそうだね』
その言葉が悔しくて、涙が出た。
『だって、自分でとらなきゃ……わたしは本物の天使じゃないから、助けてくれる神さまなんかいないもん!!』
それを聞くと、神父はまた困ったように笑った。
そして店に戻ってパンを一つ買い、差し出してくれた。
『じゃぁ、僕がアンジェラを助けよう』
――パンを受け取って夢中で食べた。
美味しかった。
こんなに美味しいものを、生まれて初めて食べた。
それから神父は、アンジェラを古い教会に連れて行った。
高級住宅街の隙間に、ひっそりと影のようにたたずむ小さな教会は、裏道を知り尽くしているアンジェラも知らなかった。
小さなステンドグラスと、壁に十字架がかけられているだけの質素な礼拝堂には、他に誰もいなかった。
『あの辺りの人から聞いたけど、君はとても足が速くて頭がいいそうだね。すごいよ』
『……え?』
こんな事を褒められるなんて、驚いた。
足が速くて盗むのが上手くても、悪どいクズと罵られるだけだったから。
更に、神父は突拍子もない事を言い出した。
『アンジェラ、本当の天使になってみないか?』
『本当の……天使……?』
『この世界は、悪い者が多すぎるんだよ。君のように、パン一つ買えない子どもがいるのに、お金や食べ物に埋もれている金持ちは、気付きもしないで笑って暮らしている』
『……うん』
『本当に罰を受けるべきなのは、そういったヤツラだ。でも、彼らは狡賢くて力を持っている。だから、やっつける為には、こちらも強くならなくては』
『……うん』
『アンジェラ。君ならきっと出来る。いっぱいお勉強して強い子になって、【悪いもの】を壊してくれるかな?やり方は僕が教えてあげるよ』
夢中で頷いた。
この人が神さまだと思った。
天上ですましてないで、血肉を持ってわたしを助けてくれた、【本物のかみさま】。
【本物のかみさま】の為なら、なんだって頑張れる。
『これから僕を【お父さま】と呼びなさい』
【お父さま】は優しく微笑みかけてくれた。
そして奥の部屋から、ヴァイオリンを取ってきて、弾きだした。
『この教会にはオルガンが無いんだ。けど、僕はこの楽器のほうが好きでね……素敵な曲だろう?』
弾かれる弦から、滑らかな美しい旋律が流れ出す。
うっとりとそれに聞き惚れた。
『僕の可愛いアンジェラ。この曲が君に勇気をくれる。本物の天使にしてくれるよ』
『はい……』
『いい子だね。さぁ、――悪しき者に、天使の断罪を』