前編-7
「立って」
声に気がつくと、いつの間にか、女が立ち上がってこちらを見下ろしていた。頭の中は
重く痺れたままで、意識が朦朧としている。やはり、投げ飛ばされたときに頭を打ったの
かもしれない。女は、立ち上がろうとしたオレの腕をとって、倒れてしまわないように身
体を支えた。
「大丈夫? 歩ける?」
まだ何処かへ連れて行こうというのか? ぼんやりした意識の上に疑問が浮かんだが、
女がオレを支えたまま身体を引っ張って階段を地下の方へ降りようとしたので、口に出す
きっかけを挫かれてしまった。
「ここ、ちょっと暑いでしょ?」
階段の途中で女に言われて触ってみると、額や首筋から汗が流れ出していた。背中の方
もしっとりと濡れていて、肌に下着が張り付いている。オレは綿パンのポケットからビニ
ール袋に入ったタオル地のハンカチを取り出し、汗を拭った。
「あら、用意がいいのね。おしぼりならアタシも持ってたんだけど、要る?」
女は、何だか暢気なことを言いながら、黒のトートバッグから、よく食堂やカフェなど
で貰える業務用にパッケージされたおしぼりを取り出して、オレに手渡した。
どうしてそんなものを持っていたのかはわからないが、小さなハンカチ一枚では拭い切
れないほど汗をかいていたので、有り難く使わせてもらうことにした。業務用の物だから
洗って返したりする必要もないだろう。
「じゃ、行きましょうか?」
汗を拭い終わると、女が言った。オレは慌てて、ビニール袋にハンカチとさっき貰った
おしぼりを入れて綿パンのポケットにしまった。
オレは、女の従順な下僕になってしまったかのように、何も言わず、素直に後ろへ従っ
て階段を降りて行った。唇を吸われたときの甘美で気怠い感覚が頭の中の重たい痺れとと
もに残っていて、抵抗する気も何も感じなくなっていた。
地下に降りてしばらく行くと通路が十字に交差していて、左側にシャッターが閉まって
いる店舗が何軒かあった。反対側には飲食店が並んでいたが、中華料理店とイタリアンレ
ストランの照明は点いていなかった。手前にあったバーラウンジの扉の上に取り付けられ
た小さなライトも消えていた。
天井の蛍光灯が壁や床を照らして、地下は、さっき降りてきた階段よりも明るかったし
空調もほどよく効いていて快適だったが、辺りには人の居る気配が全くしなかった。
「多分、大丈夫だと思うんだけど…」
相変わらずよくわからない独り言を呟きながら、女は飲食店の並びの先の奥まった場所
に向かって歩いて行った。オレもすぐに後を追いかける。通路の突き当たりまで行くと右
側に短い廊下が伸びていて、手前と奥に金属製の扉が二つあるのが見えた。