『幸せな笑顔』-1
「ん…っ、疲れたぁ。」
やっと今日の仕事が終わった。時計を見る。5時ちょっと前。
「それじゃ、お先に失礼します。」
「あっ、藤井さん…」
帰ろうと席を立った俺を田中の声が引きとめた。
「俺たちこれから飲みに行くんスけど、藤井さんもどうスか?」
「いや、俺は遠慮しとく。」
「えぇ、行きましょうよ。奢れとか言いませんから。」
どうにも断りづらいなこいつは。
「田中!藤井は行けないぞ。かわりに俺が行ってやるから我慢しろ。」
それをみかねてか、助け舟を出してくれたのは同期の吉田だ。こいつは俺の事情をよく知っているからよく助けてくれる。というか田中ら新入社員以外はみんな知ってくれているから帰りにさそってきたり残業させられることも殆どない。ものわかりのいい上司と同僚に恵まれたものだ。
「じゃ、俺は。」
田中の肩を掴んでいる吉田に、サンキュという目線を送って会社を出た。
「すいません。」
戸を開けながら誰にともなく言った。と同時にとびついてくる小さな影が一つ。
「パパー!」
「おう日菜美。」
その小さな笑顔に俺も笑顔でこたえる。
「いつも日菜美ちゃんの送り迎えご苦労様です。」
「あっ、どうも。」
エプロン姿の女性にペコリと頭を下げた。
「ほら日菜美、先生にさようならは?」
「せんせいさようならぁ。」
「さようなら、日菜美ちゃん。」
笑顔で日菜美に手を振る保育士さんに俺のほうからも挨拶をし、日菜美の手を引いて幼稚園を出た。保育士の女性はもう一度日菜美に手を振ってバイバイと言った。
帰りの車の中、日菜美は楽しそうに今日あったことやなんかを話した。
「パパはきょうなにかたのしいことあったぁ?」
「ん?俺はねえ…」
日菜美にパパと呼ばれることにも大分慣れてきた。
日菜美は俺の娘じゃない。それなのに俺がこうしてパパをやっているのには、海より深いとまでは言わないが、それなりに深い事情がある。その深い事情の中心人物というのが葉月―俺の妹―だ。2年前、結婚していた葉月が突然帰って来た。その時一緒にやってきたのが当時まだ3歳の日菜美だった。そして俺たちはそれから1年間、3人で暮らした。それが2人になったのが1年前。葉月が死んだのだ。交通事故だった。なにもお前まで両親と同じ死に方をすることないじゃないか、と思った。それから俺は日菜美のパパになり、一緒に暮らしている。そういえば、葉月の命日までもうすぐだ。
バックミラー越しに日菜美の顔を見た。楽しそうに笑っている。俺はこの笑顔を守るためならなんだってしよう。今は心からそう思える。
「葉月!…葉月っ!」
「もぅー何よお兄ちゃん」台所にいた葉月が、しぶしぶといった様子で小走りにこっちに来る。
「何よじゃない。こいつをどうにかしろ。うるさくてかなわん。」
俺はあごで足元の赤ん坊を示した。
「いいじゃない。このくらいの歳の子に静かにしてろなんてかわいそうよ。うるさいと思うならお兄ちゃんがどこか行けばいいのよ。ねぇー日菜美。」
母親にそう言われて楽しそうに笑う顔がまた小憎たらしい。二人から責められているように感じ、仕方なく俺は自分の部屋へ撤退した。まったく、葉月とあの子供が来てからというもの、ろくにゆっくりくつろぐことも出来ない。第一俺は子供が嫌いなんだ。やたらとうるさいし、何かあるとすぐ泣くし、わがままだし、何考えてるのかよくわからないし。
葉月と日菜美がうちへ来たばかりのころ、俺はどうにも日菜美が苦手だった。日菜美のほうも俺になつこうとはしなかった。別に嫌われてはいなかったとは思うが、俺にかまってもらいたがったりはしなかった。子供というのは本能的に大人が自分のことを好きか嫌いかが分かるという話があるが、案外それは本当なのかもしれない。俺と日菜美の関係性が変わり始めたのは、たしかあの日――――――…