迷い男-1
昔はよく迷子になった。
地図も磁石も、見方からして知らなかったし、そもそも見ようと考えなかった。
方向感覚皆無で、記憶力も大したことない、そんな子供。しかもふらふらとよく出歩いた。
道なき道を歩く。走る。できる限り遠くに行こうと、前だけを見て進む。
暗くなったので帰ろうと思って、後ろを向いて走ったら、迷った。
それまで見ていた前は、本当は前じゃなかったと知った。
そこでようやく、幼い俺はこわいと思った。暗闇が怖いと。
背丈が今くらいになってようやく気付いた。怖いのは暗闇ではなく、見えないことだった。
自分の手、自分の足、自分の心臓、顔、体温。それらが外郭をなくして、にじみ出て溶けていってしまうことだ。
迷子の俺は、でも最後にはいつも家にたどり着いた。
自力で帰れたわけじゃない。怖くて目を閉じて、のどがつまって、体が熱くなると、いつも奴が現れた。
「あっちだろ?」
低い声。高い背。夜の中で、くっきりと見える若い顔。
まっすぐにそこに立って、幼い俺を見据え、長い腕である方向を指し示して、いつも奴は云った。
「あっちだよ」
いつでもそれは、俺の帰る方向で。
その声が、またどこからかしないかと、そうほとんど祈りさえしながら、俺は今の日々を送っている。
背がのびて、齢をとって、さすがに道に迷わなくなった。方向感覚も記憶力も、どうやら人並みになったらしい。だから長いこと、奴に会ってない。
まだ若い、今の俺くらいの齢で、目は笑っているみたいに和んだ。
「それって、迷い男じゃない」
気まぐれに奴の話をしたら、彼女はそう云った。
ほんの気まぐれだったから、彼女が何か反応するなんて思ってもいなくて、俺は驚いて目を開けた。
「迷い男?」
聞き慣れない響き。見上げると彼女は頷いた。ソファの上の彼女。その足元に座って、彼女の膝にだらしなくもたれた、俺。
「迷い男。永遠にさまよってるの。行き会うとそのひとも迷い男になるか、迷子だったら道を教えてくれるって」
「そんなのがいるのか」
そう云うと彼女は笑った。
「馬鹿ね。いないわよ、お話でしょ」
それもそうだ。俺は迷い男という響きだけ心に留めてそう云った。
「でも、よくそんな小さいころに見た顔覚えてるのね。印象強かったんだ」
「いや…そういうわけじゃないけど」
どちらかと云えば、無個性。適度に整って、それでもきれいってほどじゃなくて、鋭さのない、やさしい顔だ。
「あんたに、ちょっと似てた」
「あたしの顔が印象薄いって云いたいわけ?」
憤慨してみせてから、彼女は吹き出した。
よく笑う。改めてそう思う。つられるように俺も笑った。
笑顔。
不安を、苛立ちを、癒すほどの力は持たない。ただ見るたびに、かなわないと思う、そんな笑み。
強さを装うのではなく、弱さに開き直ってでもなく、何か胸の奥の黒いものを隠すためでもなく。
ただ可笑しいから、ただやさしいから、沸き上がる笑い。