迷い男-3
何といったか。迷い男? そんな何だかファンタジーな存在だったとしても、とにかく俺に道を示してくれた奴はいた。
だから奴の存在を疑いはしない。疑わないから…
現れてくれないかと、切に願う。
俺は些細なことに迷って、迷いっぱなしの人生を生きてきたけど、別にそれを救ってほしいわけじゃない。
ただ、教えて欲しい。正しい方向を。否、正しくなくたっていい。
故郷の家はとうに捨てた。無条件で待っていてくれた、両親も今はない。一人住む部屋はあるが、そこがソレでないことは明白。
いま俺が迷子になったら、奴がどの方向を指さすのか。否、それも違う。知りたいのは、そう、
彼女なのか。
彼女のくれるあの心地、あれが、錯覚でも思いこみでもないということを…
それとも、錯覚でも思いこみでもいいんだということを?
信号待ちの間、俺はぼんやりと前を見ていた。
雪の街。
外郭を滲ませる白。俺は怖がっているくせに、何となく居心地がいい。不意に…
「そこだろ?」
当然のように低い声がした。
俺はぼんやりとした世界で、慌てた。周囲のぼんやりとした奴らが不審に見るのも気にせず、きょろきょろした。
迷い男。
奴は交差点の向こう側に、まっすぐに立っていた。ただ一人街を背にしていた。
まっすぐに俺を見据え、まっすぐに俺を指さした。昔より少し齢をくって見える。
口が動いた。車の騒音で、聞こえないはずの声が、俺の耳には届いた。
「そこだよ」
俺の帰る場所。
俺は走った。雪の街で、滑って転びそうになるのを何度もしのいで、走った。濡れてもぶつかっても、気にせずに、ただ前を見て走った。
迷い男。奴が指し示したのは俺自身だったが、行き先はわかっていた。
方向感覚も記憶力も、幼いころよりはましになった。だから走った。
この角を曲がって。
この橋を渡って。
この通りを横切って。
見慣れた安アパート、音をたてて階段を駆け上る。
日頃の不摂生がたたって、息が切れて死にそうな俺。寒いくせに熱くって、世界の中の小さな輪郭がきわだつ。
見慣れた名の表札。ドア。手袋ごしの寒さに震える手で、このドアを。ノブを。
どちらさま、そんな問いも無視して、俺はドアを開けた。
年上の、よく笑う女は、やっぱり微笑ってこう云った。
「お帰り」
その言葉が、聞きたかったんだ。