昇格試験の結果-2
それから寒い日が続き、私は気持ちが滅入るばかりだった。
課長は各所の引き継ぎやらなにやらで忙しいのか、なかなか外で会う事が出来なかった。
ある日の木曜日、やっと『明日DMGホテルで会えるかい?』とメールを貰う事が出来た。
それでも私は、重たい現実を受け入れなければならない事に、足が竦むばかりだった。
ホテルにチェックインすると、既に部屋には課長がいた。
まだ来たばかりなのか、コートをハンガーに掛けているところだった。
「お疲れ様」
そう言って彼はネクタイを少し緩めた。
「お疲れ様です」
私もベージュのコートを脱いでハンガーに掛け、エメラルドグリーンのマフラーを肩の部分に引っ掛けた。それを課長のコートの隣に並べた。
「沢城さんに、話さないといけない事があってね」
そこ、座って、と促され、小さな椅子に腰かけた。窓からの冷気が身体を冷やす。
「課長、岩手に戻られると聴きました」
私はなるべく穏便に、冷静に、言った。少し声が震えているのが課長に悟られなければいいなと思った。
「そうなんだ。だから君と恋人でいられるのはもう、あと一ヶ月しかない」
課長はテーブルに置いてあったボールペンを器用にクルクルと回している。長い脚を組み、横を向いたまま私の顔を見ない。少し沈黙が流れた。静寂の中に冷蔵庫の稼働音だけが続く。
口を開いたのは課長だった。絞り出すように言った。
「僕は妻と二人なんだ。子供はいない」
言っている意味が分からなかった。グレア液晶に映りこむ家族写真。小さな男の子が二人、そこには写っていたではないか。
「だって写真――」
言いかけて口を噤んだ。課長が何かを堪えるような顔をして、言葉を紡ごうとしているのが分かった。
「死んだんだ、事故で」
全身の血の気が引く音がした。知らなかった、そんな事。
「あの、全然知らなくて――」
「いいんだ。こっちの人間で知ってる人なんて殆どいない。事故だったんだ。僕も妻も、一緒に事故に遭ったんだ」
そう言ってペンを置きワイシャツのカフスボタンをあけ、まくり上げた。
「見たかもしれない。この傷は、その時の物だ」
白い腕に、更に一段白く走る、長い十字の傷。確かに私は見た。そこにそんなに重たい過去が隠されているとは知らずに。
「妻と僕だけが怪我で助かった。家を買って、すぐだった。居室に貼ってある写真あるだろう?あれを撮ってすぐに、子供は死んだんだ」
課長は再びペンを手にし、回すのをやめない。俯いたまま、言葉を紡いでいる。今更彼の睫毛の長さを知った。睫毛に隠れた彼の目の色は、窺い知れない。
「前にも言った通り、子供が出来てからセックスレスだった。それがここに来て、また子供が欲しいって妻が、言いだしたんだ」
悪寒に身が竦む。それでも私は真実を聞かなければならない。無言で先を促した。
「妊娠したんだ、妻が」
私は目を瞑った。分かっていた。もう話しの流れから察しがついた。それでも実際に課長から、それを口にされてしまうと辛かった。
「いつ、いつ知ったんですか?」
私の声は震えを通り越して、嗚咽に近くなっている。
「年末だよ。もう、つわりがおさまったと言っていた」
「じゃぁ、八月に――」
課長と腕を組む、長身の美女が歩く姿がありありと思い出される。あの一週間で、彼らは愛し合い、彼女は身籠った。
そんな事とはつゆ知らず、私は課長の恋人であり続けた。あり続けたいと思っていた。課長は年末にそれを知ったにも関わらず、私を誘い、セックスをした。奥さんの妊娠を知りながら――。
「そうだね、あの一週間だ。そんなに都合よく子供が出来るなんて思っていなかった」
「都合よくって――こっちにいる間は私だけが課長の横にいる、課長の恋人だって、課長はそうおっしゃったじゃないですか。私は課長から誘われるのを待って、いつもそれを楽しみにして――バカみたいです」
堰を切ったように言葉がほとばしり、辛うじて下まぶたに支えられていた涙が、頬を伝った。
課長はその涙を冷たい親指でそっと拭いた。私は耐えきれなくなってその手を払いのけた。
「僕もどうかしてたと思う。どうして妻の誘いを断らなかったのか」
「愛しているからに決まってるじゃありませんか」
私は冷たく吐き捨てた。
「愛してるから、彼女との間に子を設けてもいいと思っていたから、セックスをしたんでしょう」
「そうだね」
課長が回していたボールペンが、床にポトリと落ちた。
「妻の出産準備があるから、僕は東北支社に戻る事になったんだ」
私は涙が止まらず、こんな人の為に涙を流すなんて無駄だと思えば思う程、悔しくてまた涙が溢れた。
「申し訳ない、と。そう思ってるんだ。それが伝えたくて――」
課長の声が震えた。泣きたいのかも知れない。そんな事は知った事ではない。
私は立ちあがり、ベージュのコートを着た。棚に置いた鞄を持ち、部屋を出た。
エメラルドグリーンのマフラーだけが、ハンガーに残された。
私はコートの襟を立てて寒さに耐えながら駅へと歩いた。
二月の冷え切った風が容赦なく吹き付ける。その首にマフラーが無い事をわざわざ知らしめるように、首だけがどんどん冷えるのだった。
商店街に付けられた時計を見ると、まだ七時半だった。
食欲も無いので、何も買わずに駅へ向かった。
見知った後姿があった。
「神谷君――」
後ろを振り向いたその顔はにやけていたが、私の顔を見て彼はそのにやけ顔を捨てた。