ピッチャー、課長-1
金曜の昼休み、中庭のベンチで涼子と「ひも君の仕事」について話していると、ポケットに入れてあった私の携帯が短く震えた。
取り出してディスプレイを見ると、「山崎直樹」と表示されていた。
『お疲れ様。今日、駅から少し離れたDMGホテルというビジネスホテルをとりました。受付で僕の名前を言ってください。何時になっても構いません。待っています』
さっと頬が赤くなるのを自分で感じた。
「どした?顔赤いよ?」
涼子が訝しげでな表情で私の顔を覗き込んだが、目を逸らした。
「暑くない?今日」
私は火照った頬を両手で挟んだ。怪しいなぁとは言われたが、それ以上詮索してこなかった。涼子はこういう部分がさっぱりしていて付き合いやすい。課長と食事をしたその後も、その事に付いて触れてこようとはしない。だが油断は禁物だ、彼女は社内の情報屋。
十八時に業務を終えた。既に課長は席におらず、在席を示すマグネットは「出張」「直帰」となっていた。
私は指定されたDMGホテルへ赴いた。駅からは少し離れ、銀行や市役所などが立ち並ぶ一角にそのホテルはあった。
一般的なビジネスホテルで、勿論いかがわしい雰囲気は微塵もない。
自動ドアをくぐろうとしたその瞬間、左肩を叩かれた。
「お疲れ様、沢城さん」
課長だった。少し急いできたのか、汗をかいている。
「あ、課長、お疲れ様です。今日出張されてたんですね」
役職柄、会議等で席を外すことが多いため、改めて在席表を見なければ気づかないのだ。
「とりあえず、入ろうか」
指差す課長の後ろについて自動ドアをくぐり、受付を済ませた。エレベータ内は蒸し暑く、私は鞄からタオルハンカチを取り出し「汗、拭いてください」と課長に手渡した。
「あぁ、ありがとう」
課長は押さえる様にして額の汗を拭った。
六階に到着し、絨毯敷きの廊下を歩く。靴音はサッサっと箒で掃く様な音になる。
「僕、汗かきなのについタオルを持って来るのを忘れるんだよね。いつも嫁に任せてたから」
何気ないその「嫁」という響きが私の中で居心地が悪そうにくすぶった。この人は私の前で平気で「嫁」の話をするんだろうか。それでは完全に私は「愛人」ではないか。
それでも私は、その「嫁」に関して知りたい事もあったし、避けて通れない存在である事は明らかなので、黙っている事にした。
課長は六階の一番奥の部屋のドアに鍵を差し込み、ドアを開けた。
「さぁ、どうぞ」
促されるまま中に入ると、セミダブルサイズのベッドと小振りのテーブル、椅子が置かれた部屋だった。
課長は部屋に入るとすぐ、ワイシャツのカフスボタンを外し、腕まくりをした。暑かったのだろう。
身の置き場に困って突っ立っていると、課長は「そこ、座ってて」と言った。
「何か美味しい物を食べてから来てもいいかと思ったんだけど、今日はお弁当を買ってきたんだ。それでも良かったかな?」
しゃがんでがさごそとビニールの中を探る課長の後姿に「はい」と返事をした。
テーブルに出された二種類のお弁当を指さし「どっちがいい?」と訊かれ、「じゃぁこっち」とハンバーグが入っているお弁当を選んだ。
課長は先程額を拭いていたタオルハンカチを「後で洗濯機で洗うから」と言って手元に置き、「じゃぁ食べよう」と向かい側に腰掛けた。
「おいしいです」
そう言って課長の顔を見ると、課長は目を細めて静かに笑った。
「本当に沢城さんは、ご飯を美味しそうに食べるね。そういう所、素敵だよ」
私はモグモグとポテトフライを噛みながら少し下を向いて、赤くなった顔を悟られないようにした。
普通のお弁当屋さんに売っている、普通のお弁当なのに、課長と顔を合わせて食べていると少し美味しい感じがするのが不思議だった。
「課長と食べると、何でも美味しいんですよ。本当に」
課長を見遣ると、眼鏡の位置を直しながら照れ笑いを浮かべていた。それを「素敵」だとか「カッコイイ」だとか思わず、「可愛い」と思った。