神谷論-1
六月に入り、昼休みのベンチは雨に濡れる事が多くなった。
今日は午前中まで強い雨が降っており、ベンチは濡れていたので、食堂から直接、涼子と居室へ戻る事になった。
私は途中でお手洗いに寄り、自席へ戻る途中で課長と顔を合わせた。
「あ、沢城さん。ちょっといいかな?」
「何でしょう?」
課長に手招きされ、彼に近づいた。
近づくと、香水とも違う、初夏の風の様な爽やかな香りがした。制汗剤か何か――つけてるんだろうか。もしくはシェービングクリームの香りかも知れない。
「前に言ってた、レジメのお礼がしたくて。近々どうかな?」
眼鏡の奥の細い目からは、黒目が殆ど見えない。彼は笑顔になると視界がゼロに近くなるのだろうか。そんな事を思った。
「いや、あの、この前の決済間違えで私もご迷惑お掛けしましたし、良いですよ、お礼なんて」
私は手を左右にブンブン振って、やんわりお断りをした。
「じゃぁ、その件はチャラでいいとしよう。それとは別で、沢城さんを食事に誘ったら、迷惑かな?」
課長を見上げたまま数回瞬きをした。こんな風に大人の男性に、ストレートなアプローチを受けた事は無かったので、酷く動揺し、答えがすぐに浮かばなかった。動揺の色は隠しきれず「あ、嫌ならいいんだ」と課長は顔を硬くして微笑んだ。
「あ、あの、行きます。私で良ければご一緒させて下さい」
私はペコリと頭を下げて、そして顔をあげた。私より頭一つ分高いところにある顔。インテリジェンス溢れる銀縁眼鏡から注がれる優しい視線。
素敵だ、と思った。
まて、妻子持ちだ。
「なぁ、コーヒー飲みに行ってもいい?土曜」
こうやってぶっきら棒に誘ってくる大馬鹿者もいる。少しは課長を見習って欲しいものだ。
「うちは喫茶店じゃないっつーの」
あの日介抱されてから、月に一回ぐらいのペースでコーヒーを飲みに来るようになった。
特におかしな関係になる訳でもなく、部屋でコーヒーを飲みながら音楽の話をしたり、仕事の話をしたりして、彼は帰って行く。
男女間の友情があるとするならば、これなのかな、と思う。
「ぴんぽーん」
玄関の前でデカい声で叫ぶので、慌てふためいて玄関ドアを開ける。
「毎回毎回やめてよ、バカ!」
へへへっと笑いながら靴を脱ぎ、横にあるスリッパに履き替える神谷君の頭を一発、空いているスリッパでスパっと叩いてやった。
既にコーヒーはドリップされていて、マグカップに飛び込む瞬間を魔法瓶の中で待っている。
「砂糖多めのミルク多めでお願いします」
「はいはい」
砂糖と牛乳を入れたマグカップをレンジで温めてから、コーヒーを注ぐ。「コーヒーがうまい」とか言うご大層な人間が飲むコーヒーにしては、コーヒーの要素が薄い。
私は自分の分のコーヒーをマグカップに注ぎ、彼が座るリビングのソファの隣に腰掛ける。
「いいなぁ、川も見えるし、何度も言うけどこの家はいいよな」
「そんなに言うなら引っ越して来れば?空き部屋あるんじゃない?」
この部屋からは土間川という大きな川が見え、河川敷には桜の木が植えられている。春は桜、夏は花火が見える。秋は月見で冬は――何もない。
「そういやさぁ」
急に思い出したかのように私の方に向いたので、顔を引いてしまった。「何」
「この前沢城さん、女子トイレのわきで課長と何か話してたよな?何話してたの?」
餌を欲しがって涎を垂らしている犬みたいにだらしのない顔をしている。
「神谷君、ストーカー?」
褒めてないのにドヤ顔をする神谷君を、逆に褒めてやりたいとさえ思った。
「食事に誘われたんだよ」
コーヒーカップを手の平で包み込みながら、その温かさを身体に伝える。
「ほらな、神谷君の言ってる事は十中八九正しいのだよ。課長は沢城さんに惚れているのだよ」
「んなバカな」
私は立ち上がって、オーディオラックの横にあるギタースタンドからテレキャスターを持って来た。何となく耳でチューニングする。
「だって相手は妻子持ちだよ。暇潰しに誘ってくれたんじゃないの?」
「沢城さんが旦那持ちで、暇だからって俺を食事に誘うか?」
「誘わん」
「ほれ見た事か」
そう言われると言い返す言葉が見当たらない。
「もし奥さんや子供と街でばったりーなんて事になったら、沢城さん、大ピーンチ!だよ?」
大げさなジェスチャーで神谷君は私の危機について語った。片手に持つマグカップの中のコーヒーが、ラグに向かって落下するのではないかとひやひやした。
「だよね――断ろうかな。食事するだけでも『不倫だわ、キィィィ!』って思う奥さんだっているだろうしね」
もし私の旦那が、女性社員と二人きりで食事をして帰ってきたら――と考えるとやはり、断るべきなのかと思った。
が、頭の片隅では「ばれなきゃいいんじゃないの?」というもう一人の自分がいる事に、実は気づいている。
「ねぇ、神谷君は特許部のあの子、どうして振っちゃったの?」
話題を変えるために、先日の昼休みに話題に上った話を口に出した。
「だからぁ、人は顔じゃないんだってば」
口を尖らせながらそう言うが、全く要領を得ない答えである事を彼は分かっていない。
「訳が分かりません。日本語でお願いします」
「俺は喋った事も無い奴といきなりお付き合い出来る程器用じゃないの。こうやって気心知れた奴の家でマッタリとコーヒー飲んでる方がよーっぽどいいの。彼女なんていらないの」
そう言うと、実に美味しそうにコーヒー(コーヒー牛乳)をひと口飲み、にっこり笑った。
笑いかけられても困るよなぁ――。
私はそのままテレキャスターのチューニングを続け、彼はニコニコしながら窓から見える川の様子を眺めていた。
よくある、休日の光景だ。