アリス-2
「……逸,貴方手に何か持っているわね,」
母は目敏い。僕が服の中に何か隠していることを察したようだ。母の手が触れようとする。僕は身を捩って其れから逃れようとする。忽ち,母の平手打ちを食らった。僕の全てが瓦解すると同時に,服の中からアリスが飛び出す。
「じっとしていないのが悪いのよ。ママはね,逸が今みたいに聞き分けのない子だから怒るの。全部逸の所為。判るかしら,」
アリスを拾い上げながら,楽しそうに言う。あの手で触れて欲しくない。誰にも,触らせたくない。僕は立ち上がろうとする。アリスを奪い返したかった。母を殺そうとも思った。……足が動かなかった。竦んでいるのだ。母の恐怖に怯えているのだ。こんなにも愛している人を救えないだなんて。情けなさに,嗚咽が漏れる。
「泣くんじゃないよ,下種。高が本一冊で,だらしないね,」
大きく息を吸い込んだ母。次の瞬間彼女は,其の本の装丁と中身を真っ二つに切断した。
「アリス!」
僕は叫ぶ。其れが,母にとって思う壺であった。僕の憤懣を食い漁るかの如く,楽しそうに中身を引きちぎる。粉々になったアリスが目の前で無惨に舞い落ちる。やがて全てが床へ積もったとき,僕は躍起になって其れを掻き集めていた。母の携帯が鳴り響いた事にも,気付かなかった程。
母の鼻歌と僕のすすり泣き。間もなく着替えと化粧を済ませた女が現れた。其の女は玄関でアリスを掻き集めている惨めな僕の,直ぐ横を素通りする。軽快な足取り。固いヒールの音が頭の中重く響いた。穴蔵の滴りのように玲瓏,遠くで,聞こえた。
何も言わずに出掛けた女の鼻歌が,体内にこびり付いている。其れを吐き出すかのように,僕はアリスの亡骸の断片を抱き,泣きじゃくった。アリスはもう答えてくれない。僕はまた,独りになった。……御免よ,アリス。助けてあげることが出来なくて。
翌朝,僕は泣き腫らした目の儘登校する。結局あれから一睡も出来ずに,夜通し泣き続けていた。其の無様な顔の所為か,すれ違う生徒たちの視線が僕に集中する。普段は極端に避けられる僕への意識。今日は異様なまでに注目されている。慣れない瞳の魚貫に,僕は俯いて教室の仕切を跨ぐことになった。
其処に不自然な静寂が訪れる。僕に対する新種の虐めなのか。母からの仕打ちに比べれば,こんなもの大したことはない。拳を握りしめ,自席へと歩く。しかし,途中僕は立ち止まることとなった。驚いた。久方ぶりにクラスメイトに声を掛けられたのだ。学級委員の女生徒と,其の知己が二人並ぶ。脅えた風に僕を見る。
「……何,」
其の沈黙に堪えかねは僕が言う。すると,学級委員の女生徒が手鏡をさしだして言う。
「……無い……よ,」
蒼白な顔。震えている。彼女の人差し指は僕の額を示している。とりあえず,鏡を受け取って顔に当ててみる。
「……あっ,」
僕は思わず声を漏らす。腫れた目元,力無い表情,滴る緋色の液体。……液体?其の道筋を辿ってみる。上へ上へと鏡をずらし,額に辿り着く。なんと,皮膚が裂けて中身が空洞だったのだ。あまりの衝撃に鏡を落とす。其れまでなんともなかったが,此れをきっかけに身体が僕に訴える。もう一つ,思い当たる場所を感じ取った。下半身を見る。開いた半ズボンの所々に赤い斑点。手を触れてみる。其処に,男ならある筈の膨らみがなかったのだ。其れを確認する際に,右手に掲げていた体操着袋の中身が垣間見える。血塗れだった。何故だろう。僕は爪先から胸部まで,指を手繰らせる。こなたかなた,皮膚が剥がれて無くなっている。体操着袋の中に入っているのは,恐らく僕の皮膚の断片だ。まるで昨日引きちぎられたアリスのように。……そうか。僕は目を見開いた。
「……僕はアリスなんだ,」
僕は呟く。体操着袋を探れば,思った通り鋏が出てきた。今朝方の明星時,此処に鋏を入れた気がしたのだ。僕が其れを取り出すと,皆が揃って後ずさりする。全員が怯えていたと思う。構わずに,僕は言う。
「ねえ,御覧よ。僕はアリスになったんだ。」
僕は教室中を飛び回って喜ぶ。僕が走ると皆が走る。机がひっくり返り,椅子が悲鳴をあげる。其の内,教室の外に野次馬が出来た。僕はそちらに行く。野次馬が散らばり,錯綜する。ほら,見てよ。僕はアリスだ。あの愛しいアリスなんだ。
暫く走ると何人か教員が駆けつけてきて,僕は無事,取り押さえられた。それでも尚叫び続ける。そうせずには居られなかった。大人の煙草臭い背中で,鋏を振り上げる。実に愉快だった。
「やったぞ!僕は勇敢だ!気高く,そして美しい!見ろ!此の身体を!僕はアリスだ,アリスなんだ!」
血塗れの廊下。救急車かパトカーのサイレン,別にどちらでもいい。興味はない。……それよりねえ,見てよアリス。僕と君はやっぱり繋がっているんだ。同じ人間に引き裂かれたもの同士だもの。よかった。やっと一つになれたね。僕らずっと一緒に居られるんだよね。
――終