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アリス
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アリス-1

指に絡む新書の香り。誰も居ない図書室の中央にて。はらはらと頁を捲った後,僕は其奴を抱きしめる。汚れた体が清浄される,そんな錯覚に浸ることが出来る。継ぎ接ぎだらけの心も,此の本が紡いでくれる心地になれる。虐められっ子の僕を,必ず本は,此奴らは癒してくれる。
――給食ノ時間二ナリマシタ。手ヲ洗ッテ,ウガイヲシマショウ。
 校内放送が鳴り響く。給食なんて,食べる気には毫もなれない。僕に運ばれてくる給食のお椀には,何時も埃塵や泥が入れられているから。蛙の目玉が入っていたこともある。止むを得ない。今日のお昼も此処に居よう。再三自分に言い聞かせて,件の本を抱いた儘,窓際の一番隅にある椅子へ腰掛けた。そして,其の本の適当な頁を開く。
「おはよう,アリス。」
 僕は文面に向かって言う。貴方も,無論,此処に居る僕を見た誰しもが,そう形容するに違いない。しかし,僕が話かけているのは単なる文面なんかでは無い。此の本の主人公アリスは,僕の世界で確実に存在している。美しく気高いアリス……。彼は何時も脆弱な僕を励ましてくれる。初めて出会ったとき(皆は,此のような場合初めて此の本を読んだとき,と言う)憧憬の感を抱かずには居られなかった。彼は僕の目標其のものだったのだ。聡明且つ,豪宕。しかも冷静で,勇敢。彼の一挙一動に目が離せなくなる。此れがまた僕にとっては堪らない感覚だった。何度も何度も,其の本を読み返した。そうして気がつけば僕は,アリスを熱烈に愛していた。
 彼に対する気持ちに歯止めがきかなくなるまでに,そう時間は掛からなかった。赤く腫れ上がった想い。……彼が欲しい。彼を自分だけのものにしたい。耐えきれなくなった僕は,図書室から其の本を盗んでしまっていた。放課後,ランドセルに其れを突っ込み,帰路を全力で駆ける。自分だけのものになったという,確証が早く欲しい。家の戸片を潜って直ぐにランドセルを開けた。装丁を見据える。額縁の中,バックを鳶色が占める。其の中央にアリスの黒い影。此れら額をまるごと,古びたリボンが括る。
「……ようこそ,アリス。」
 アリスの影が揺らいだように見えた。……そうか,きっとアリスも嬉しいのだ。アリスも僕のことが好きで,其の僕の家に来れたことが,嬉しいのだ。僕は思い切りアリスを抱きしめる。と,忽然近くで足音が聞こえた。
「逸,帰ったの,」
 午睡の直中だったのか。母の眠たげな顔が玄関に現れる。慌てて僕は,アリスを服の中に隠して,頷く。訝しげに皺を繁殖させた女の目が,僕の全身を嘗め回す。声を聞いてから慮ってはいたが,彼女の腕が靴に延びた其の瞬間,僅かに肩が震えてしまった。
「まあ,何なの此の汚い靴は。こんなモノ履いて近所を歩かないでよね。ママが変な目で見られちゃうじゃないの。本当,逸は嫌な子ね。ママを困らせたいのね。さあ,逸,来なさい。駄目な子にはお仕置きよ,」
 靴を汚したのは僕ではない。朝には見あたらなかった泥や綻びは,放課後までに学友たちが施したものだ。しかも,中に画鋲入り。こういう風に,すれ違いざま服を濡らされたり,所持品を汚物まみれにされたりすることは頻繁にあった。その都度,母に見つからないよう注意する。虎視眈々,彼女の外出時を見計らって其れらを洗濯,乃至は処分していた。アリスの事で胸がいっぱいだった所為もあったのだろう,僕は油断していた。
「……ごめんなさい,直ぐに綺麗にします。だから許して……,」
 視界が震撼する程に,僕の身体は強ばっていた。母の不気味な笑みが恐ろしい。俯いて見えないようにする。……だが,其の時はすぐにやって来る。母は傾く僕の頭を鷲掴みするも束の間,固い石の床へ叩きつけた。俯瞰された僕は,冷や汗に湿った掌で,服の中のアリスを強く握りしめる。
「そんな顔をしても駄目,許さない。そうやって逸は何時もママを悪者扱いするのよね。パパが死んだときもそうだったわ。覚えてるかしら。ママ,パパは何処,パパは何処って鬱陶しかった。今も十分鬱陶しいけれど。ねえ,逸,パパの所に行きたいなら,行ってもいいのよ。」
 何度も聞かされている言葉なのに,どうしても慣れない。むしろ時を経るごとに胸の痛みは鋭くなっていく。此れから先,更に深刻になっていくのだろう。とは言え,僕の“此れから先”が母に許されるのか,否かは判らない。彼女に殺されるならば,其れは其れで本望だが。
 僕の父は病気で死んだ。其れ以来,僕と母の二人暮らしだが,母は絢爛な衣装に身を纏うと,夜は決まって何処かに出掛けてしまう。僕は大概,何時も独り。


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