涙の合流地点-1
企画部との合同会議に、私と課長が駆り出された。
企画部のオッサン面々とは明らかに一線を画す若いリンは、浮いていた。
それでもプレゼンではオッサン連中に引けを取らない素晴らしい訴求力を発揮していた。
こんなに凄い人と付き合っているんだ、と思うと何だかニヤニヤが止まらなくなる。
が、実はまだ正式に付き合っている訳ではない事を思い出し、ニヤニヤ顔が急速に窄まる。
「おい、聞いてるか?」
課長に肘で突かれ、はっと我に返った。
卓を向い合せ、斜め前に座っているリンと目がった。
クチパクで「バカ」と言われた。
寝室のベッドで布団にくるまり、最近気に入っている文庫本の3回目を読み始めた。
この部屋には暖房の類が無く(リビングから移動してくればいいんだけど面倒臭い)、身体は布団にくるまっていても、指先が凍える。
2月ってのは何でこんなに寒いんだろう。サイドテーブルに置いたココアからはひっきりなしに白い湯気が立ち上り、その温度を手放し跡形も無く消え去る。
外は、すぐにも雪に変わりそうな冷たい雨が降っている。
文庫本を半分ぐらいまで読み進めた所で、携帯に着信があった。リンからだ。
「もしもし」
『今ちょっといいか』
落ち着き払った声だった。急用という訳ではなさそうだ。
「うん、いいよ。本読んでた所だから」
そうか、悪いなと彼は謝った。身体を起こし、少しぬるくなったココアに口を付けた。
「どうした?」
『お前のその、どうした?って声、優しいな』
そんな事を言われたので全身の血液が顔に集中した。「何だよいきなり」
『本題はそれじゃなくてな、お前に頼みてぇ事があるんだ」
うん、と先を促した。
『ホワイトデーに彼女の家にお返しを持って行くんだけど、一緒に来てくんねぇか?』
「えっ!」
思っていたよりも数倍デカい声で叫んでしまい「耳イテェ」と言われた。
『嫌か?』
「まぁ、出来れば行きたくない」
布団の端の縫い目を、爪でなぞりながら、駄々をこねるような子供の様に言った。
『俺の隣に、リサじゃない、美奈が立ってる現実を見せれば、分かって貰えんじゃねぇかと思ったんだ。それでも駄目か?」
私は暫く考え込んだ。
そのリサさんが、中田理沙さんではないと分かっていれば、承諾しただろう。「私が彼の新しい女です」とドヤ顔までしちゃうかもしれない。あ、でも精神的に病んでいるとしたら、そんな荒っぽい真似は出来ないけれど。
でもそのリサさんが、中田理沙さんだったら――。街で見かけた時に目を逸らされた。あの時点で彼女は、リンの隣にいるのが私である事に気づいた筈だ。何せリンは背も高く、顔も良いので目を引く。それに、名刺だって見せた。本名は知っている筈だ。それでも普段通りに接してくれている中田さんに、合わせる顔なんて無い。
推測でしかない。リサさんが中田さんであるという事は推測だ。リンに、リサさんの本名を訊けば済む話だ。でもそれが出来ない。
もし彼の口から「中田理沙」という名前を聞いたら、私はリンを諦める?それとも奪う?どちらを選ぶ?
いずれにせよ、藤の木で見た、暗い影を落とすリンの姿を、もう2度と見たくない。
彼には少し幼く見えるあの顔で、笑っていてほしい。
どちらのリサさんであっても、私は彼に笑っていてほしい。それだけだ。いつもなら「面倒臭いからパス」と言ってのける所だけど――。
『美奈?大丈夫か?』
布団の端を片手でギュっと握った。
「行くよ。一緒に」
まだリサさんが中田さんではないという可能性が、無い訳ではないのだから。可能性は2分の1。
『良かった。じゃぁ3月14日、空けといてくれよ』
最近めっきり連絡を寄越さなくなった中田さんの事を考える。
私に出来る事は、リサさんに、もしくは中田さんに、現実を突きつける事だけ。
願いは、リンの笑顔を取り戻す事だけ。
ベッドに横になった。胎児の様に丸まった。文庫本を読むことをやめた。
前向きな事を考えている筈なのに、右目から零れた涙が左目に入り、大きなしずくが頬を伝う。
もう引き返せない。誰かを傷つける事になる。その事実は消せない。