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永久の香
【大人 恋愛小説】

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飛散の点-1

 社内メールで高橋君からメッセージが届いた。
『今日上がり遅いか?もし良ければ藤の木』
『定時プラス1H。終わったら企画部に顔出して、居なければ直接藤の木向かう』

 結局彼の方が業務終了が早く、私は後から藤の木の暖簾をくぐった。
 いつになく浮かない顔で、ビールを呑むリンが目に飛び込んできた。
 纏う空気が普段と余りに違い過ぎて、大将と女将さんへの挨拶もそっちのけでリンの隣に座った。
 大将が気遣いげな笑顔で「ビールでいいかい?」と訊くので、コクリと頷いた。
「どうした、何かあった?」
 彼の背中に手を当てた。リンは俯いたまま顔を上げず、ポツリと「躁鬱病だと思う」と言った。
「彼女?」
「あぁ。処方された薬がキッチンのカウンターにあったから、こっそり名称をスマホにメモしてきたんだ。そしたらリーマスっつー躁鬱病に効く薬と安定剤数種、あとは睡眠薬」
 ゴトっと重い音がした。ビアジョッキを持つ手に力が入らない様子だ。
「彼女は、どんな様子だった?変わった様子は?」
 精神を病んでいたかつての自分と彼女が重なり、なんとも言えない悲しい、同情的な気持ちになった。
「別れ話は相変わらずスルーだ。バレンタインにはチョコ作るからって張り切ってた」
 そうなんだ、と私はジョッキの底から立ち昇る気泡を目で追った。その気泡は次々に弾け、次々に生産される。
「やたら明るくてさ。結婚したら家を買おうとか、専業主婦も悪くねぇとか。自分で買った指輪を『婚約指輪』って言ったりな。あれを躁状態って言うのか」
「そうかもね」
 きっとリンが帰ってから彼女は、一気に鬱状態へ降下して行ったに違いない。
「リン、こんな事言いたくないけど、過度の優しさって、時には凶器だよ」
「そうだな。優しくし過ぎてんのかもな、俺」
 項垂れていた顔をあげ、肘をついて髪をグシャっとやった。
 長い溜息を吐き、ビールをあおった。
「泡、ついてる」お絞りで口の横を拭ってあげた。
 疲れ果てた表情で何とか頬を緩め、「ありがとう」と掠れた低い声で言った。

 躁鬱病を抱えている彼女を、放って置けるほどリンは無責任な男ではない。
 病の原因は自分にある、と思っているからこそ、こんなに落ち込んでいるんだろう。
「これ、サービス。色男が沈んだ顔してると勿体無いよ、高橋さん」
 女将さんがもろきゅうを2皿、カウンターに置いた。
「ありがとうございます」私は出来るだけ笑顔で言ったが、彼は頭を下げただけだった。

 ふと、中田さんの事かが頭に浮かんだ。
 なかなか会えない彼氏。パン教室で焼いたパンを彼氏に食べさせている事。真面目で一途でかっこ良い彼氏。安定剤の服用。道端で視線が合ったのに逸らされた件。伊香保温泉で買ったお土産と同じ包装がされた箱。私の名刺を見た彼女の顔。クリスマスの電話。
 もし万が一、中田さんがリンの彼女で、彼氏すなわちリンとうまく行っていない事を隠しているとすると――。
 まさかね。そんな偶然があるものか。出来過ぎだ。
 思った事は胸に秘め、まずはリンを元気付ける事に傾注した。


 バレンタインに甘い物は要らないから、と先んじて言われていたので、デパ地下でちょっと高価なお煎餅を買ってきた。
 休日ということも手伝って、バレンタインデーのチョコ売り場は行列だったが、お煎餅売り場は閑古鳥が鳴いてたので並ぶ面倒が省けた。

 午後からリンが家を訪ねてきた。お煎餅を買ったから、と私が呼んだのだ。
 ここんところのリンは、仕事中に顔を合わせても、上の空で私に気づかないことすらある(腹立たしい)。
 オートロックの呼び鈴に「解錠」で対応し、玄関を開けた。
 藤の木で見たより幾分元気を取り戻したかの様に見え、安心した。
「そこ座ってて」ローソファに促し、私はお茶の支度した。トレイには、プレゼントのお煎餅を乗せた。
 「甘い物苦手って言ってたからお煎餅にしたの。食べられる?」
 お煎餅を載せたお皿をじっと見ると、「うん、旨そう。食べて良い?」と訊いた。
 そこには普段見せる笑顔があり、胸を撫で下ろした。
 「どうぞ、残しちゃいけませんよ」
 そう言って2人でボリボリとお煎餅をたべた。

「お前、甘い物は好きだよな?」
 うん、と頷くと、リンは鞄から平たい箱を取り出した。
「実は午前中、彼女がうちに来てさ、これを置いて行ったんだ。匂いからしてチョコなんだ。俺、苦手だから良かったら食べてくんねぇかなぁ?」
 ええ、よろこんで食べますわよ、と言って箱を開けて思わず息を飲んだ。心臓が、活きの良い魚の様に跳ねた。
 チョコの上には「Rin&Risa」と丁寧な筆記体で描かれたメッセージが乗せてあった。

 Risa。中田理沙。
 またひとつ繋がる。繋がる度に、罪悪感と不安感がひとつづつ積み重なって、押し潰されそうになる。
「あ、後で食べるね。冷やしておこ」
 そそくさと冷蔵庫に向かい、動揺を隠しきれない顔を隠した。一息ついたところでソファに戻る。
「彼女、リサさんって言うんだね」
「ああ。どこにでもある名前だ」
 確かにそうだ。リサなんてありふれた名前だ。外国人研究員でリサさんって人がいたっけ。ワールドワイドだ。
 だけど、その他の要素を含め、ひとつひとつの点が、線で結びつき始めている事は明らかだ。それをリンに伝えよか迷い、やめた。
 こんな偶然、あってたまるか。
 リンはけじめをつけようとしている。それでいいではないか。

 私の憶測が本当だとして、不可解なのは中田さんが私に何も言ってこない事だ。


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