ヨーグルトの物理-1
浅い眠りから目が覚めた。
熟睡感が殆どなく、なかなか身体を起こせない。目蓋が、重くのし掛かる。
昨日のアレは、何だったんだ。
私に何を期待しているんだ。
ああ、面倒臭い。彼女がいるならそれでいいじゃないか。
何で私なんかに――。
鉛のように重い身体を、トリモチから引き剥がすように起こし、キッチンへ向かう。
コーヒー豆を電動ミルで挽き、コーヒーメーカーにセットし、コーヒーを淹れる。
コーヒー好きにとってこの作業は面倒ではない。
朝1杯のホットコーヒーを飲んだ残りは、冷蔵庫で冷やしてアイスコーヒーにするのだ。
コーヒーを淹れる間に食パンを1枚焼く。
そしてその間に蜂蜜をかけたヨーグルトを用意する。
めんどくさがりでも、朝ご飯はキチンとしている。
朝ご飯を食べている最中も、高橋君の言葉が耳を離れない。耳なし芳一の如く、耳だけ切り取ってしまいたい。
浮気を3度もした、元夫を思い出す。
性格は違えど、やっている事はアイツと同じではないか。
そんな風に高橋さんを詰ってやる事が出来たらどんなにラクか。
ただ、それができなかった。
あのキスを、避ける事は出来た筈。
キスをされて不快なら、ビンタの1発でもお見舞いしてやる事だって出来た筈だ。
なのに身体は動かなかった。
私は彼に、惚れている?
スプーンからヨーグルトがボタリとパジャマに落ちた。慌ててティッシュで拭うが、水分がパジャマの綿に吸い取られ、柔らかだったヨーグルトは徐々にその身を固くしていく。
当面の問題。
「仕事がやりにくい」
お昼前、会社の最寄駅で中田さんと待ち合わせをした。
今日は小振りのコバルトブルーの石がついたピアスに、茶色い巻き髪、鶯色のスカートに白いシャツを着ていた。何を着ても絵になる。
私はデニムに――以下省略。
叶う筈もない美しさに、少しの羨望と、少しの嫉妬が綯い交ぜになって、ぎこちない笑顔で挨拶をした。
彼女の自宅の最寄駅と、私の勤める会社の最寄駅は同じだった。
訊いてみると「会社も駅の近くなの」だそうだ。便利で良いな。
昨日、高橋君に突然キスをされた、あの場所に目が行く。
一瞬足が止まってしまった。
案内されたカフェは「ディーバ」というカフェで、床から天井に伸びた大きなガラスから、外が一望出来る。
「アボカドのサラダ丼がイチオシらしいよ」
レジで並んでいると中田さんが教えてくれた。
あれやこれや選ぶのも面倒で、言われた通りのアボカドサラダ丼と、カフェラテを頼んだ。
「急にゴメンね。何か友達が出来たら居ても立ってもいられなくなっちゃって」
正直に思った事をスラスラと吐露し、実行する中田さんが羨ましかった。私も本音だけを吐いて生きていけたら。
「落合さんは、予定大丈夫だったの?彼氏とか、居るんでしょ?」
何故それが前提なのか、私には理解できない。
「いないから、そういう人。中田さんはいるんでしょ?」
中田さんは目を伏せながら、細くスラリと伸びた指と指を絡ませていた。
「いるけどね。最近は会う回数も減って来ちゃったかな。私ね、逆プロポーズしたの」
ひゃぁぁー!可愛い顔して積極的なのね。驚いて目を丸くした。
「で、彼は何て?」
俯いたまま顔を上げようとしない彼女を見て一瞬、地雷踏んだかと思った。
「いずれはそういう関係になるとは思うけど、今は仕事に打ち込みたいからって。軽く断られちゃったかな」
ちょっと悲しげな顔で微笑んだ。何とかこの状況を脱しようと、頭を捻った。首が1回転するかと思った。
「でもさ、仕事がひと段落したら、って事でしょ。明るい前途がまっているじゃないのさ!」
割り箸でテーブルをバシッと叩いた。
先程とは違う、少し照れの入った微笑みで、「そうかな」と呟いた。
アボカドのサラダ丼が思いの外美味しくて、次回来た時のために他のメニューも見ておくことにした。
「次に来たらこれがいいな」
「こっちもいいんじゃない?」
暫く彼女との会食場所は、このカフェになりそうだ。
その後は高校時代の思い出を語りながら、ゆっくりカフェラテを飲んだ。