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永久の香
【大人 恋愛小説】

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付箋の効力-1

 仕事がやりにくいなんて思っていたのは私だけだった。
 休み明けの月曜日、外回りの準備のために私はいち早く出社し、資料をまとめた。
 私の次に出社してきたのは、高橋君だった。

「おはよ」
「おはようございまふ」
 まずい、噛んだ。焦りが丸見えではないか。
「今日の営業先、予定表で渡してあったよな?」
 ちょっと神経質そうに眉間にシワを寄せ、真面目で固そうに、低い声で言う、通常通りの高橋臨。
「あぁ、はい、うん。資料はここに」
 私は全然冷静になれない。冷静になんてなれるものですか。この男、高橋臨は、彼女がいながら私にキスをし、好きだと言ったんですよー。
 私は何も言い返せなかったんだから。いきなりだったんだから。テロみたいなもんだ。

 それでも仕事は待ってくれない。書類を一纏めにクリアファイルに突っ込み、鞄にしまう。そして高橋君の後ろを追い、彼の運転する社用車に乗り込み、営業先へ向かう。
 車中での会話もこれまでとは変わらず、他愛もない話に終始した。彼は何事もなかったかのように私に話し掛け、私はその度に体を固くした。

 何故普通でいられるのかが、不思議だ。もしかして、あの出来事は私の妄想だったんじゃないか。そんな風に思えて来る。
 ま、妄想な訳が無いんだけど。それは唇が覚えているから。

 高橋君は、いい男だと思う。勤務態度は真面目だし、硬派っぽいし、凄いカッコイイし、それでいて時々見せる幼い笑顔が素敵で、正直なところ惚れ始めていた。
 好きと言われて、その感情が少しずつ少しずつ空気を送り込む浮き輪みたいに、徐々に膨らみつつある。

 でも、これは彼にとっては浮気だ。だって彼女がいるのだもの。
 元旦那がしていた事と同じではないか。嫁がいながらにして、嫁以外の女と関係を持つ。
 高橋君も案外、彼女に嫉妬して欲しいだけだったりして。
 真面目で一本気だと思っていた高橋君に、少し落胆したという気持ちも、無くはない。

 2人で話し合える場を持たないと。
 そんな風に思った。


 金曜の朝、私より早く出社していた高橋君は、PCのモニタと睨めっこをしながら「おはよ」と声だけで挨拶をした。私も「おはよ」と応える。
 隣にある私のデスクに目を遣ると、新しい機材の営業資料と共に、薄黄色のポストイットが貼ってある。

 『今日、藤の木で待ってる。高橋』

 光の早さでそのポストイットを剥がし、ポケットに入れた。顔は真っ赤だ。
「よし、じゃ、行こうか」
 私が営業資料を手に持ったのを確認し、高橋君はスタスタとドアに向かって歩き始めた。
 まだ資料読んでないのに。ま、車中で読むか。

 午前中は外回りだ。社用車で営業先へ向かう。
 車中で営業資料を読んで時間を潰したが、読み終えた後は会話も無く、どうにも我慢たまらん雰囲気になった時、「そういえば」と思い出した。
「あ、ガム、買ってきたんだ」
 鞄をゴソゴソと漁り、底の方からミントガムを取り出した。
「お口に合うかわかりませんが」
 そう言って板ガムを1枚取り出し、包装を解き、高橋君に手渡した。
「あぁ、気ィ遣わせちまって悪ィな」
 高橋君は職人の様に骨ばった長い指で、それを受け取っり、口に放り込んだ。

 午後は社に戻り、報告書の作成に勤しんだ。
 来週からの営業予定も提出しなければならない。
 今日は定時に上がれそうもないな。
 そう思いながらPCの画面にカタカタと文字を打ち込んで行く。

 定時のチャイムが鳴り、今日内勤だった人の殆どは「おつかれー」と帰って行った。
 報告書を書き終えたと思われる高橋君も、荷物をまとめて部屋を出ようとするのが視界に入った。
 一瞬、足を止めてこちらを見たのが分かった。
 私は、それに気付かぬふりをして、難しい顔を浮かべながらPCに向かった。

 営業予定の作成に、思いの外手間取って、気付いたら20時近かった。
 高橋君はまだ、藤の木で待っているだろうか。
 ここからの作業は30分あれば終わるだろう。いや、20分。
 私は、藤の木に行ってはいけない気がした。彼との関係に何らかの動きが生じる事は明らかだ。だっていつもなら、ポストイットになんて要件を貼らない。直接言葉で伝えてくるはずだから。
 彼自身が、何らかの動きを生じさせようとしているに違いない。
 PCを打つ動作が自然に遅くなる。

 このまま、残業を続けよう。彼が諦めて藤の木から去るのを待とう。
 彼には悪いが、そう思った。
 2人で話し合える場を持たなければ、とは思っていたが、いざとなると竦んでしまうのだった。


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