30 直線-1
「タキ、ロンドン行かねぇ?」
オレンジジュースを飲みながら、こう切り出した。10月に入り、タキの家の窓からはハラハラと舞う落ち葉が見える。葉同士が触れ合い、囁くような音がする。手を伸ばして掴もうとしたが、逃げられた。
「ロンドン?行ってみたいけど、何で?」
「行きたいから。タキも言ってたじゃん、海外行くならロンドンって」
「言ったけど、何でこのタイミング?」
ベースの弦をチューニングする手を休めない。人の話を聞く時は顔を見なさいっ。
「正月って、向こうはクリスマス休暇だからお店も開いてなくて、旅行代金が安くなるんだよ。そこを狙ってさぁ」
ロンドンのクリスマス休暇は、年をまたぐんだそうだ。年が明けてもデパートではクリスマスセールが行われる。ただし、お店が開いたころには帰国、になってしまうかもしれない。
「ほら、元旦出発なら十万で行けちゃうんだよ」
旅行会社からもらってきたパンフレットを見せた。
「あ、ヴァージンアトランティック航空指定じゃん、あそこってアメニティが凄くカラフルで可愛いらしいよ」
「行こうよ、決めちゃおうぜ、これから予約しに行こうぜ。ベースなんて放っておこうぜぇ」
テーブルに両手をついて乗り出し、タキの顔色を伺った。タキは仕方ないなぁという顔で、ベースを置いた。
パンフレットを貰った旅行会社にパスポートを持って行き、すぐに予約をとった。飛行機の最後の二席が空いていた。あっという間にロンドン行が決まった。
それからは毎日、ロンドンの街について、店について、フリーマーケットについて、インターネットで調べ、時々タキと情報交換をして、準備を進めた。
将太にロンドン行を告げると、「あぁそうなんだ。決めるの早いね」と言われただけだった。今更反対されても困るけど、あまりの反応の薄さに落胆した。機械に弱い将太はインターネットが繋がらなくなったから直してくれと言うので、その場で直した。そしてまた、各々が別の方向を向いて作業を始めた。
「ロンドン?」
さいちゃんが、通常でもでかい声を三倍ぐらい張り上げて叫んだ。
「声デカいよ。ロンドンだよ。イギリスの」
「旦那と?」
「友達と」
「なんだ、不倫か?例の高円寺の?」
「違ぇよ、女だよ。タキ」
さいちゃんは、タキと3人で一緒に飲みに言った事があるので、タキの事を知っている。
「ロンドンのイケメン捕まえて1発?」
「やらねぇよ。言葉が通じないし」
「言葉が通じないからこそ身体を通じさせるんじゃないか」
「全然巧くねぇよ。アンタと一緒にするんじゃない。永遠にムラムラしてろ」
さいちゃんは海外出張に行く度に、現地の風俗店で女を買っている。彼は英語が堪能なので、身体だけでなく言葉も通じる訳だが。日本のイケメンは、海外でもイケメンなんだろうか。
「でも今度のプロジェクトが成功したら、ご褒美にフランスの工場に連れてって貰えるかも知れないよ?」
「それは君たちの様な上級の人達だ。私の様な下僕はひたすら研究に励むんだよ。歯車だよ。それに、ただ海外に行きたい訳じゃなくて、憧れなの、ロンドンが」
席を立ち「さぁ歯車は実験してきまーす」と言って、実験室へと向かった。