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キャッチ・アンド・リリース
【大人 恋愛小説】

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29 富溢れる-3

 高円寺まで車で送ってくれた。車中ではサイパン島にある「バンザイクリフ」の話で盛り上がった。戦時中、米軍に圧された日本兵が、断崖から「万歳」と言いながら身投げした場所だ。
 「そうだ、今度、処刑博物館に行ってみようよ」ひまわり君はその笑顔とは裏腹に、結構ヘビーな嗜好があるので気が合うなぁと思う。私よりも背が高い彼は、サトルさんに負けず劣らずいつもおしゃれをしているし、顔だって素敵だ。実は太一君、いい男だ。

 高円寺で太一君と別れ、駅近くのマンションへ向かう。少し急ぎ足で歩いただけなのに、額を汗が覆っていた。今日は涼しい筈なのに。鞄の中から小振りのタオルを取り出し、抑えるように拭いながら、エレベーターで六階に上がった。部屋番号が分からなくなったのでメールで訊き、インターホンを鳴らす。隣のドアの前には、青い3輪車が置いてあった。
 「どうぞ」
 キィという金属音と共にドアが開き、サトルさんが顔を出す。はぁ、今日も素敵だ。
 「お邪魔いたします」
 あれ、今日は煙草の匂いがしない。風が強いせいか。部屋に入り、前に来た時に座ったちゃぶ台の辺りに腰をおろした。

 「今日は浅草にいたんだね」
 「うん、新潟から友達が来ててね。2人とも浅草に行った事が無いから行ってみよう、って」
 「浅草かぁ。人力車に乗ったり?」
 「いや、それはさすがに恥ずかしくて乗ってない」
 机に広がった書類をとんとんと1つに纏め、「俺も行った事ないなぁ」と言いながらこちらへ歩いてきて、ちゃぶ台を挟んで対面に、足を投げ出して座った。

 「あれ、今日は煙草吸わないの?」
 「今、禁煙中」
 へぇ、と答えた。だから煙草の匂いがしなかったんだ。ちょっとだけ、寂しい気がした。
 「その後、どうしてた?旦那さんとはうまくいってるの?その顔を見るに、あまり状況は変わっていなそうだけども」
 サトルさんにもエスパー能力があるのか。
 「まぁ相変わらずですよ。相変わらず、お互い別の方を向いてる感じ」
 そっかぁ、と手に煙草を持っていないサトルさんは手持無沙汰といった感じで天を仰いだ。

 「あ、そうそう、結婚式を挙げた。サイパンで。新婚旅行的な物も一応」
 天を仰いでいた顔をストンとおろし、私に目を向ける。ニヤリと笑う。
 「何だ、ちゃんと新婚さんやってるじゃないか」
 「形式的にはね。あの数日間は確かに、新婚さんだったけど、帰ってきたら元に戻った」
 あぁ、こんな事サトルさんに話したって何の解決にもならないのに。何故全てを曝け出して話してしまうんだろう。

 コーヒー飲む?と訊かれて、声に出さず頷いた。サトルさんは立ち上がり、見覚えのある二段の冷蔵庫から缶コーヒーを2本持って戻ってきた。
 「ありがとう」とそれを受け取った。ニコチン中毒の後はカフェイン中毒か?冷蔵庫の中には缶コーヒーがぎっしり詰まっているのが見えた。何かのキャンペーンなのか、コーヒーの缶にはユニオンジャックのシールが貼られていた。

 「あぁ、イギリスに行きたいな」
 ぽつりと呟いた。「え、なんで?」とサトルさんが返す。
 「小さい頃にね、ピアノの先生がロンドンに行ったお土産に、赤い2階建てバスのマグネットをくれたの。たったそれだけの事なんだけど、凄く憧れてるの。ロンドンに。
 スマイソンの文具とか、あとはフリーマーケットとか、フォートナムメイソンの紅茶でアフタヌーンティもね。いっぱいあり過ぎるんだよ、魅力が」
 短大の頃は殆どレッスンに通っていなかったが、4歳からピアノを習っていた。お蔭で絶対音感が身についているので、ギターやベースも独学で何とかやっていけている。ピアノの先生はしょっちゅう海外に行っては、素敵なお土産をくれた。
 高校の時にはまっていたバンドのボーカルが、「ロンドンのヒースロー空港は古い絨毯の匂いがする」と言っていた。それを嗅いでみたい、という小さな夢もある。

 「ミキ嬢はピアノやってたのか。意外だな。俺はサッカー好きだから、サッカーを観にロンドンに行ってみたいな」
 そういえば、サトルさんが以前住んでいた家には、プレミアリーグのユニフォームが飾ってあったっけ。
 一緒に行こうよ、とはさすがに言えなかった。
 「行けるといいね、お互い」
 そう言ってサトルさんは飲み終えたコーヒーの缶を持ってキッチンへ行き、引き返してきた。そして今度は私の隣に座って、キスをした。額同士をくっつけたまま、小さな声でこう言った。

 「ロンドンの話をしてる瞬間のミキ嬢の顔は、良い顔だったよ。それと、今日は泣かないで帰ってね。ミキ嬢の泣き顔を毎回見てる気がするから」
 私はキスで返した。そして言った。
 「サトルさんとこうしている今この瞬間は幸せなんだ。だから幸せな顔が出来る」
 今回はさいちゃん達と賭けをする暇もなかったな、と思った。


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