4 傷跡-2
夕方まで仕事だった田口は、定時であがったらしく、その足で家の前まで迎えに来てくれた。夕方6時前だった。少し開けた窓から、バイクのエンジン音が近づいて、止まったるのが聴こえた。
ショルダーバッグに、丁寧に折りたたんだユウのスウェットと財布、携帯を入れて、外へ出た。
「はいこれ、ヘルメット」と田口は白いヘルメットを差し出した。無言で受け取り被る。
ヘルメットのベルトがうまく止められなくて苦戦していると「お前、蝶々結びとか、苦手な類だろ」と田口がベルトを締めてくれた。顔が、近い。ドキドキする。
田口に続いてバイクの後ろに跨り、ヘルメットの位置を整えた。
「どこにつかまればいい?」
「抱き付かなけりゃどこでもいいよ」
「アホか、抱き付くわけなかろう。じゃぁ片方の肩借りるよ」
右肩をつかみ、左手はシートの下にかけた。
安心した。
田口とは「そういう」関係になってはいけないと思っている。
『抱き付かなけりゃどこでもいいよ』
彼の方から牽制してくれたおかげで、良い距離を保てそうだと思った。ドキドキも杞憂に終わる。
世間的には「ない」とされている「男女の友情」も、田口となら有り得ると思っている。
ユウの家まで10分弱、バイクで走り、電話でユウを呼び出した。電話を持つ手は震えていた。寝起きらしいボヤけた声だった。
田口は、ユウの家の少し離れたところで待っていてくれた。
髪をくしゃくしゃにしたユウが、眠そうな目を擦りながら玄関から顔を出す。
「ちわっす」
手の平をパッと開く。こうすると震えが目立たない。
「おう」
全身からダルいオーラが発せられている。
「はい、これ借りパクしてたやつね。お返しします。ありがとう」
「はぁ、わざわざどうもね」
ふと目に入った玄関の三和土には、パンプスが一足、ちょこんと置かれていた。
「――彼女と一緒?」
「うん」
あぁ、訊かなくても良い事を。何故かここで自爆。
「あ、じゃぁお邪魔しましたー」
踵を返して去ろうとすると、ユウは玄関からグイっと首を伸ばして私の右肩をつかんだ。
道路の左右を見て、田口の存在に気づいたらしく、動きが止まった。
「ふーん、田口と来たんだ」
「あ、うん。ついでって言うかなんと言うのか。彼女、部屋で待ってるでしょ。お行きなさいな」
と言って、後ろ手に手を振って逃げる様にその場を後にした。
右肩に、少しだけ、大きな手のぬくもりが残っている。
田口は私のヘルメットを空に投げては取ってを繰り返して待っていた。
「大丈夫だった?」
「何が?」
「お前が」
「この通り無傷。心以外は」
ハハっと短く田口が笑い、ヘルメットを手渡してくれた。ベルトを取る事はできても締める事がやはりできず、田口に「ヘルプミー田口様」と言って締めてもらった。
「やっぱり、飲みに行くの、やめるか」
私の顔を覗き込んで田口が言った。
「大丈夫だよ。飲んで忘れた方がいい。そうだ、飲もう」
「いや、大丈夫じゃないと思うね。家、帰りなよ」
本当は、田口エスパーの言う通り、大丈夫じゃなかった。いくらか動揺していた。いくらかではない。相当に。
ユウには新しい彼女がいる事は想像がついていたが、彼女がいる時にわざわざ訪ねて行きたくはなかった。そんな事実は知らなくて良かった。寝起きのユウと一緒にいる彼女。
したって仕方がない「嫉妬」をしている自分を、直視できなかった。
こんな時に田口の優しさが、嬉しくもあり、辛くもあった。
一人になったら泣いてしまいそうだ。田口のバカ、何でこんなに優しいんだよぉ。
「運転手さん、家までお願いします」
「はいよ」
田口の言う通り、家に戻る事にした。
両親がいない、がらんとした家で一晩過ごすことを考えると憂鬱だ。3食レタス生活の空しさを思い出す。こんな時は、本当は誰かと一緒にいたいんだ。それがなかなか言い出せない。自分のキャラクターを呪った。
家の前に到着した。花びらをはらはらと落とす桜の木の下で、バイクのエンジンがリズミカルに音を排出する。
「――今日、暇だったら、うちで飲まない?」
1人で泣いてしまうぐらいなら、田口の優しさで笑って過ごしたい。断られるのを覚悟で、渾身の力を(殆ど戦闘能力ゼロに近いんだが)振り絞って、訊いた。
「え、親はいないの?」
「旅行に行っておる」
スニーカーの踵を地面にトントンと打ち付けた。桜の花びらが降ってきて、つま先に落ちた。お、ストライク。
「何このシチュエーション。親が旅行中に男が入り込んで。俺が悪い事しそうな感じ?」
「君は何もしないでしょ、だから誘っているのだよ」
あっそ、いいよ、とそっけない返事をして再びバイクに跨った田口の後ろに私も座り、近場のコンビニへお酒を買いに行った。