不幸せをありがとう-3
「出番だぞ。」
関口さんが、控え室まで俺を呼びに来た。
オオォォー
スタジアムは揺れている。日本が揺れている。
「状況は?」
「一対一、同点だ。残り十五分。」
舞台は奇しくも整っている。俺は右ひざを抱えた。麻酔は効いている。けれど痛みは消えていない。やめろ、と俺の中の何かが歯止めをかけている。
『ただし五分だけだ。』
そう言った人がいた。けれど歓声が聞こえる。俺の名前を呼んでいる。俺は何の為に生き、何の為に死ぬつもりだったのか。その答えは、ピッチ上に。
「関さん、肩を貸してくれないか?」
さぁ、行こう。
子供の頃から描き続けた夢が待っている。
俺の訪れを待っている。
そして俺は立ち上がった。
「選手の交代をお知らせします。」
オオオオォォ
そのアナウンスにスタジアム全体が揺れた。勝利が絶対条件のこの試合で、救世主になるべき背番号10の到来。誰もが望んでいた。だから、その男はそこにいた。本当は知っていた、彼は歩けるような状態ではないことを。監督も、観客も、そして彼自身も。けれど、誰もが彼の名を叫ぶ。
そしてその日一番のパスが彼のもとに届く。
歓声は一層大きくなり、テレビの実況すら聞こえない。しかし最後のディフェンダーの前に、彼はシュートを放つことは出来なかった。足を削られ、その場にうずくまった。会場からは溜め息がもれる。
「やっぱり駄目なのか?」
俺は自問する。今の衝撃で、もう走ることはできなくなった。敵のマークは容赦なく足を蹴りつけ、その度に苦痛に顔が歪む。時間は、残り五分。このまま終われば、歩けるくらい回復できる見込みはある。足は折れてはいないし、靭帯は伸びきってはいるが、切れてはいない。ならばここらが潮時なのか?足より先に、心が折れそうだった。
『決して諦めないで。』
まだだ。
まだ終わってはいない。
俺の名をコールする人たちがいる。
俺は何の為に生き、何の為に死ぬつもりだったのか。
立ち上がる。その姿を、仲間が確認する。プレーは続いている。ゴール前で倒れていた俺に、マークはついていない。
「今だぁ、俺にだせぇ!!」
足が折れても良い、靭帯が切れても良い。
この勇姿をいつか思い出せる日々が来るのなら。
すべての人の願いを乗せて、パスは出された。
残り時間は数分。けれどそのパスは、大きすぎる。ディフェンダーの裏に出されたパスに、彼は追いつけず、キーパーに取られてしまうだろう。誰もが諦めの溜め息。
『決して諦めないで。』
誰かがそう言った。だから俺は走らなければいけない。足が悲鳴を上げる。最後通告が、脳に鳴り響く。それを無視して足を酷使する。ボールは無情にも転々と転がり。
届かない。
届かない。
届かない。
子供の頃から描き続けた夢に、俺は届かない。
――― バキッ
不穏な音が鳴った。それは歓声より大きな音を発して己の脳に響く。折れたのは足か、心か。ただ、どちらにしても、もう。
――― 幸せをあげよう
俺の体中に、言葉が響く。何かが染みる。
届かない。
届かない。
届かない?
そんなはずは無い。
だって、この瞬間に収束された人生だ。
心は折れてはいない。だから奇跡は起きた。
一瞬の加速。折れた足で、俺は地を叩く。誰もが無理だと嘆いたそのボールに、俺は触れた。伸ばした右足が、ボールの軌道を変えていく。それはキーパーの脇をすり抜けて。
もう、俺は一生、立ち上がることは出来ないだろう。
けれど今があるなら、それでいい。
いつか今は過去となり、思い出と変わる。それを顧みる時の顔が笑顔であるならば。
――― 幸せをありがとう
歓喜に揺れるスタジアム。突き抜ける歓声。その中心で俺は、拳を天に掲げた。