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不幸せをありがとう
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不幸せをありがとう-4

二章

 掲げられた拳を、青年は見ることが出来なかった。彼は病室で横になっていた。医師からは、絶対安静の命を受けて。
 彼の主治医の北見は悩んでいた。その青年に悪いところが見当たらない。けれど確かに、青年は衰弱していた。いや、老衰と言うべきか。それは寿命のように思えた。しかしその青年の外観は二十歳前後、寿命なんて有り得ない。
「ふぅ。」
北見はカルテから視線を上げた。そして飲みかけのコーヒーに手を伸ばす。最近、深い眠りを得ていないせいか、仕事中だというのに、うつらうつらと眠気に襲われる。
ザザァ
ザザァ
波音が聞こえる。
投げられた小さな瓶。
その中には、一体どんな願いが込められていたのだろうか。
『もう一度、海が見たい。』
彼女の最後の言葉。
最後の願い。
叶えられることが無かった、その・・・

「北見先生、北見先生。」
ガバッ
私はその呼びかけに飛び起きた。辺りを見回すと、若い看護婦が心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「随分お疲れのようですね。顔色が優れませんよ。」
「あぁ、悪い、どうやら眠ってしまったようだ。自分の体調管理も出来ないようでは、医師失格だな。」
「そういえば、今日入院された青年、病状は何だったんですか?」
「それが分からないんだよ。どんな検査にも引っかからないんだ。」
「それでも、かなりやつれていましたよ。」
「あぁ、このままだともって一ヶ月だろう。」
私がそう言うと、看護婦は黙ってしまった。それほど重いとは考えていなかったようだ。言うなれば彼は、短くなった蝋燭で、どんな治療を施しても蝋の長さを変えることは出来ない。老衰とは、そういうものだ。だから医師は、その経過を見守ることしかできない。
両の手を見つめる。
―― また、何も出来ないのか
私はどうして医師を目指したのか。
通過してきた多くの死は、私から何を奪い、何を残していったのか。
両の手を握り締める。
絶対に失ってはいけないものがあった。
それだけは確かで。
握り締めた拳を広げる。
そこには、もう何も残ってはいない。
何も、残ってはいない。

「あなたの体は、もう長くはありません。」
その言葉を聞いた青年は、それほど驚いているようには見えなかった。私は、奥歯を噛み締めながら、残酷な告知を続けた。
「もって一ヶ月でしょう。」
その執行猶予期間を聞いても、彼はうろたえない。
「だから、残りの時間を有意義なものにしていただきたい。」
「もし、」
彼は、そこで初めて口を開いた。ゆったりとした口調で。
「もし、あなたが僕の立場だったら、何をしますか。可能、不可能を別として。」
言われて私は考える。残された僅かな時間。やり残したことなど数え切れない程あるだろう。その中で、私なら。
「君に話しても、全く分からない話さ。ごくごく個人的な願いだ。」
「興味ありますね。参考にさせてください。」
彼は、私の目をまっすぐに見据えながら尋ねた。周りには誰もいない。死の間際にいる青年の問い掛けに、私はゆっくりと口を開いた。
「私にはね、結婚を前提とした彼女がいたんだ。彼女と過ごした数年は、とても楽しかった。多分、これからの人生の中でも、あれほど濃密な時間はやってこないだろう。だけどね、彼女は三ヶ月前に死んでしまったよ。この病院に入院してきて、私の目の前で死んでしまった。私は救えなかった。それはとても重い病気だったから、仕方のないことだったのかもしれない。」
 気付くと涙が頬を伝っていた。もう枯れ果ててしまったはずの涙。時間が悲しみ押し流すことは無い。だから私は、死ぬまで彼女を思い続けるのだろう。延々と続く独白を、彼は静かに聞いていた。
「もう一度、彼女を海に連れて行きたかった。」
それが私の願い。
決して叶えられることのない望み。
それを聞いた青年は、静かに目を閉じる。
「分かりました。」
そう言うと、彼は私の胸に手をあてた。
「おい、ちょっと、何を・・」
――― 幸せをあげよう
ドクン
――― !?
何かが私の中に流れ込んできた。それは頭のてっぺんから足の指先まで染みわたる。
「今から、その海に行ってください。」
その指示に体が従う。
「どうして・・。」
必死に搾り出した問い掛け。
「行けば分かります。」
青い顔をした青年に促され、私はその場所へと向かった。


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