恋は盲目-2
バスタオルを身体に巻いたシホは、小娘に向き直った。タオルの端を溢れる胸元に差し込んで、手を離しても落ちないようにする。
「フン、泥棒猫にはオバサンで十分よ!」
「なんか盗んだの、シホ?」
「さあ?」
目の前の小娘には見覚えが無いし、何より盗みを働いた覚えなどは全く無い。
「そっちじゃないわよ。アンタのことよ!」
小娘は詰問するように、人差し指をサチコに向けた。
「私? あなた、誰かと勘違いしてない?」
いきなり泥棒呼ばわりされたサチコは、しかし慌てる風も無く、全裸のまま両手を腰にあてて胸を逸らした。
堂々と裸身を晒すサチコに、小娘は憎々しげな視線を突き刺す。
そこでシホは小話を思い出した。
「そう言えば、こんな笑い話があったわね。ある不倫してた女が相手の奥さんに別れてもらおうと、夫婦の住んでるマンションに突撃したんだって」
「不倫の女?」
「そう。奥さんの旦那と自分がどれだけ愛し合ってるか、奥さんが妻として相応しくないか、そんなコトを熱心に話したわけ」
「それで?」
「奥さんにしてみれば、いきなり飛び込んできた小娘に、旦那の不倫の事実を突きつけられて呆然としたでしょうね」
「まあ、当たり前よね」
「ところが、話が所々食い違っているのに気付いて、奥さんがアレ?って思ったのよ」
「どういうこと?」
「ふふ、実はフロア一つ間違えてて、全然関係の無い別の奥さんに別れ話を迫っていたという……」
「ぷはっ、なあに、それ?」
「思い込みが激しいと恥をかくとか、そういう話よ。あなたもそうなんじゃないの?」
シホは、年上の女二人に射抜くような視線を向ける小娘に尋ねた。
「間違えてないわよ! オバサンがヒロ君と話してるの、何度も見てるんだから!」
「ヒロ君……って誰? どこで見たって?」
「とぼけないで! プールとか、ジムとか、この中でよ! さっきもプールサイドで話してたじゃない!」
「……ああ」
シホは彼女の言うヒロ君が誰なのか理解すると同時に、目の前で怪気炎を上げる若い娘が怒っている理由もなんとなく分かった。
「つまり、あなたはそのヒロ君ってインストラクターの恋人なのね?」
「そうよ!」
「で、サチコはあなたの恋人を寝取ろうとする泥棒猫だと」
「フン、分かってるじゃない」
両手を腰に当て、胸を張って女は決め付けた。
なんとなく話しても無駄な雰囲気がしていたが、一応シホは恋人の代わりに小娘に事情を問いただしてみる事にした。したのだが、そこで小娘をからかいたい衝動に駆られてしまった。こういう、人の話を聞きそうに無いタイプの女は、真正面から受け止めてはダメである。
「あなた、お名前は?」
「私の名前なんて関係ないでしょ!」
「そうかもしれないけど、『あなた』『オバサン』じゃ話しづらいでしょ?」
「……」
「言いたくない? それとも、とても変な名前だから恥ずかしいの?」
「そんなわけ無いでしょ、普通の名前よ!」
「変な名前って?」
「最近多いらしいわよ。当て字ですらない、変な読み方の名前。DQNネームとか、キラキラネームとか言うらしいけど。頭悪いわよね」
最近の幼稚園や小学校の名簿を見ると、とてもではないがまともに読めない名前が多く、新年度を迎える度に担任の先生を悩ませているそうだ。『騎士(ナイト)』などはまだましな方で、ポケモン好きの親が『光宙(ピカチュウ)』と付けたり、ディズニー好きの親が『小人(ミニー)』と付けたり、『海月(みづき)』のように本来の意味を知らずに付けてしまう事もある。
「ぷっ、それってクラゲよね」
シホの薀蓄に、サチコは思わず噴きだしてしまった。
もちろん、それで場が和むわけも無く、小娘は二人の熟女に向ける視線をいっそうトゲトゲしいものにした。
「言い難いのなら先に名乗ってあげる。私は篠崎シホで、こっちの泥棒猫がサチコ・グレースよ」
「誰が泥棒猫よ!」
「それで、あなたのお名前は?」
「……」
「そう、それじゃ仮にピカチュウって呼ぶ事にするわ。ねえ、ピカチュウ」
「なっ、だっ、誰がピカチュウよ!」
「だって、名前を教えてくれないんですもの。だから、あなたはこの場ではピカチュウよ」
「ふざけないで!」
「ふざけてるのはピカチュウよ。ピカチュウは真面目な話をしに来たんでしょう? なのに、自分の名前も名乗らずに、ピカチュウは一方的にサチコを泥棒呼ばわり。そんな人の話を聞くと思う、ピカチュウ?」
「ぶっ……、くくく……」
当人であるにもかかわらず、一歩引いて聞き手に回っていたサチコは堪えきれずに再び噴きだしてしまった。
「何よ、変なオバサン……。アケミよ。森之宮アケミ」
いらだたしげな視線をシホに突き刺していた小娘は、それでも素直に自分の名前を名乗った。さすがにピカチュウと呼ばれるのは面白くないらしい。それとも、根は素直な娘なのだろうか。
「アケミさん、ね。可愛らしい良い名前じゃないの。それじゃ、話を戻しましょうか」
シホは別に、おちょくる為だけにこんな話をしたわけではない。アケミに一方的に言わせているだけでは埒が開かなくなりそうだったので、主導権を取ろうとしたのだ。若さに任せているだけの小娘の矛先を逸らしつつ、目上の視線で相対しようと思ったのだ。
シホは一息ついて、胸の前で腕を組んだ。心持ち、豊かな乳房を持ち上げるようにして軽く胸を逸らす。バスタオル一枚だけの扇情的な身体が、淫らさを強調して見える。
「ヒロ君だっけ? 確かにサチコは彼と何度か話をした事があるけどね、彼はここのスタッフで私たちはここの会員。話す事があって当たり前じゃない? それに、サチコを誘ってきたのは、あなたのヒロ君の方よ。食事でもどうですかって。彼女は結婚してるからそういうのはお断りって何度も言ってるんだけど……」
シホはサチコの左手を持ち上げ、小娘に薬指の指輪を見せた。