忌まわしい記憶-3
フロントガラスを叩いていた雨粒が霧のように細かな水滴に変わる。音の無い世界で窓の外は白い靄に覆い隠されていく。岡田は静かに続けた。
「笑った顔が可愛らしくてね……あの顔を見れば仕事の疲れなんか吹き飛んだ。彼女の喜ぶことなら何だってした。誕生日のプレゼントも、旅行も、記念日の花束も欠かしたことがなかった。自分で言うのもおかしいけど、そこそこ良い旦那だったんじゃないかと思う」
「幸せ、だったのね」
「あはは、そうだね。幸せだった。僕は永遠に彼女だけを愛し続けるつもりだったし、そのまま彼女と将来生まれてくるはずの子供を守りながら生涯を終えることに、なんの不満も感じていなかった。彼女も同じだと思っていた……」
エリナの指を握った岡田の手がしんしんと冷えていく。力が緩む。そこから言葉にならないマイナスの感情が伝わってくるように思えた。エリナはまた両手で、今度は岡田の手を暖めるように優しく包み込んだ。
白い景色を切り裂くように、岡田はべったりとアクセルを踏み続けた。エンジンが唸りをあげる。後続車がバックミラーから点になって消えていく。
「僕は仕事で帰りが遅くなることが多かった。会社の業績は右肩上がりで、まあ商売繁盛だったんだよ。忙しくてね、休日もよく駆り出された。それでも彼女は文句ひとつ言わずに、いつも昼食の弁当を用意して優しく見送ってくれた。でもたまには早く帰ることもあったんだ。1年に1度か、2度のことだけどね。結婚して3年ほど過ぎたとき、たまたま早く帰れる日があって……そのときに見てしまった」
「何を?」
岡田は正面を見据えたまま唇を噛んだ。歯の当たった部分が白く変色する。エリナの握った手が小刻みに震え始める。窓の外を取り巻く白い靄はその濃度を増していく。
「その日は、取引先との約束がキャンセルになって午後からの時間がぽっかり空いたんだ。たまには一緒に出かけようと思って彼女に連絡したんだが、うまく連絡が取れなくてね、家に帰ることにした。帰りに彼女の好きなケーキを売る店に寄ろうと思って、普段は行かない繁華街まで足を伸ばした。生クリームがふわふわして絶品だったんだ。ほかの店では買えなかった……店はガラス張りで、外からでも店内の様子は良く見えた……そこに、彼女がいたんだ。うれしそうに、男と手をつないで」
「ああ……」
「何かの間違いだと思った。でもそれは間違いなく彼女本人だった。靴も洋服も、見覚えのあるものばかりだった。そのまま見なかったことにすればよかったのに、僕はできなかった。そのままケーキ屋を出たふたりの後をつけたんだ」
「それで?」
「ふたりはそのまま僕らの暮らすマンションに向かった。そのままごく普通に部屋に入って行った。慣れた様子で、どこにも不自然なところが無かった。閉じられたばかりのドアの奥から喘ぎ声が聞こえた……大好きな彼女の声だ。僕は裏切られていたのか、とぼんやり思った。でも、本当に彼女のことが好きだったから、ただの浮気なら許すつもりでいた」
玄関のドアを開け、すぐ脇にある寝室をのぞくと、そこには半裸でもつれあう彼女と男の姿があった。脱ぎ捨てられた洋服、乱れたシーツ。最初に気付いたのは彼女の方で、小さく叫んだ後、男にしがみついて「どうしよう、どうしよう」と繰り返し、男は彼女を腕に抱いたまま不敵に笑った。