「こんな日は部屋を出ようよ」後編-1
僕はライターに火を点けた。
輝く炎を近づけると、ルリは僅かに首を引っ込める。
顔から十センチ足らず。おそらく、こんな間近で炎を見るなんて初めてだから、恐怖心が働いたのだろう。
「初めてだからね。怖くて当たり前さ」
場を和ませるつもりだったのだが、ルリは別の意味に捉えたようだ。
途端に、口をへの字に結び僕の方を睨みつける。が、その姿は実に愛らしく、あの生意気だった八歳児の頃を、ありありと思い起こさせた。
「そんなつもりで言ったんじゃないよ」
僕にも経験がある。いざ、ことに及ぶ時になると、平静でなんか要られない。心が乱れるのが普通だ。
だから、ルリが普段と異なる気持ちなのは当然の事で、むしろ、冷然としていないのに僕は安心させられた。
「こうやるんだ……」
僕は、自分の煙草に火を点けた──手本にと考えて。
しかし、何時も然り気なく行っていることも、いざ意識すると、動きのぎこちなさが露呈してしまう。
「グッ!……ゲホッ!ゲホッ」
吸った煙を一旦、口の中に溜めておいて、空気を吸うのと一緒に肺の中へと送り込む。つもりなのに、煙だけを送ったことで、酷く噎せてしまった。
「……大丈夫ですか?」
「ああ……ゲホッ!だ、大丈夫。ちょっとしたミスだよ」
喉がジリジリと痛む。我ながら、みっともない場面をルリに晒してしまった。
「……もう一度」
再びトライする。今度は手順を頭の中で確認しながらだったので、無難にこなす事が出来た。
ちゃんとリカバリーしておかないと、彼女に見下されてしまう。どうにか、そういう事態は避けられたようだ。
「最初は息を止めて、吸った煙を口の中に溜めておく。それから、口で浅く呼吸する。それだけだよ……」
「分かりました」
再度、細かいレクチャーをして、三度ライターに火を点けた。
「さあ」
彼女に目配せを送った。ルリは軽く顎を突き出し、首を伸ばして炎に近づいていく。咥えた煙草の先端が、微かに震えている。
高潔さ漂う存在が、道徳に背いて過ちを犯そうとする。
これをきっかけとして、堕落の道をたどるのか。それとも、この一度で満足するのか。
何れにしても彼女は、執着していた願いが叶う事で、過去の自分とは決別を図る。
この出来事が如何なる結果をもたらそうとも、それは自らが望んだ事であって、誰のせいでもない。
煙草の先端に火が着いた。
ルリは何故か、堅く目を閉じていた。
「ゆっくり口の中に溜めて」
両頬の膨らみが窄まると同時に、先端の火種が輝きを増した。煙が口腔内を満たしている証拠だ。
「煙草を口から離して、浅く息をするんだ……」
口許の煙草を手に持ち、僅かに開いた口唇から息を吸い込んだ。今まさに、混ざり合った煙と空気が、口腔内から喉を通り、肺へと送られる瞬間、
「ぐッ!」
ルリは短い呻き声を発したかと思うと、まるで、体内に入った毒を拒絶するように激しく咳き込みだした。
普通なら、様子を心配したりするのだろうが、僕は彼女が苦しむ様をジッと静観していた。
無垢な身体が過敏に反応して苛まれている姿は、何処か倒錯的で、僕は心惹かれるのを抑える事が出来なかった。