第2章〜第3章-10
「君は昨日会った人だよね」
桜井刑事は逮捕した男の動きに注意をはらいながら、奈美に呼びかけた。
「ええ、そうです」
「そちらの男性は?」
桜井は奈美と一緒にいる男性を訝しげに見た。
「梶谷といいます。えーと…」
「桜井さん。この方は私を助けてくれたのです。私にいたずらしたその人を追いかけてくれました」
奈美は梶谷がこのホームにいる理由を桜井に述べた。
「そうですか。それはありがとう。えー、梶谷さん、お急ぎでなければ駅長室で少し話せますか。時間はそれほど掛かりません」
「はい。かまいません」
梶谷は快諾した。
桜井刑事は痴漢を荻窪駅前の交番に連行していった。奈美と梶谷は桜井刑事の後ろ姿を見送った。痴漢は身体的特徴からいって、いじろうに違いないなと確信した。昨日、奈美の家の縁側に干してあった下着を盗んだ男だ。となると、電車の中での痴漢は計画的だったことになる。奈美は連行されていくいじろうの背中を見ながら悪寒に襲われた。
「どうしたの?」
「えっ」
「顔色が青くなっている…」
「だいじょうぶです」
「災難だったね。嫌なことは早く忘れることだ」
「そうします」
「あしたがある。明日がある。あなたはだいじょうぶ」
梶谷はさり気なく、奈美を励ました。その気遣いが嬉しかった。
二人は駅長室に入った。桜井刑事が駅長にことづてしてくれてあったので、気兼ねなく来客用の椅子に向かい合わせに座った。
「いつも三鷹駅から乗ってくるでしょう」
「はい」
「なんとなく気になっていたのです。あなたが乗ってくると、ちらちらと姿を見てしまっていた。なんというか…正直に言うと、惹かれるものがあったのです」
びっくりした。梶谷が自分に注目していたなんて…。信じられなかった。
「わたし…わたしも梶谷さんを見つめていました」
告白した。思わず言ってしまっていた。言葉のあと、胸の中に恥ずかしさがじわーと広がった。
「あっ、あの、自己紹介がわりに名刺を渡します」
梶谷は名刺を二枚差し出してきた。
「二枚もいただけるのですか」
「一枚は携帯用。もう一枚は自宅用…って、なんだか厚かましいか」
「いえ、もらっておきます」
名刺には「新宿区人権センター・職員、梶谷哲平」と記載されていた。