戯れの記憶-4
時間はもうすぐ23時になろうとするところ。男たちの誰かひとりを呼んでみようかと思い、バッグから携帯電話を取り出す。ひらりと紙片が落ちた。トオルの連絡先が走り書きされた紙切れ。
・・・それもいいかもしれない。エリナはそこに書かれた番号を押した。
すぐにあの低く静かな声が出た。トオルは斎藤のようにぐずぐずしたことは言わず、自宅の場所を説明すると今からすぐに行くと言って電話を切った。エリナのまわりの男たちはこうでなくてはいけない。物事にはタイミングというものがあるのだ。迷っている間に興味は失われ、チャンスは逃げていく。
トオルが来るまでにはまだ時間がある。バスルームへ向かう。ざあざあと流れる湯に打たれながら、数年前のことを思い出す。
大学生活にも慣れ、夜毎に強くなる自身の欲望を抑えきれずに男たちを求め続けていた日々。余計な噂を流されずに済む相手を見つけるために、手軽な出会い系サイトを何度か使った。
そのなかに、あの男はいた。トオルの父親。小さな町の古本屋を経営する、さえない男。細かい事情は何も知らない。ただ、ひょろりとした体のわりには、意外なほど貪欲にエリナを求めてきたのをよく覚えている。
整理もされずに床から天井まで積みあげられた本たち、ほこりだらけの店内、インクと黴の匂い。狭いスペースいっぱいに詰め込まれた本棚の陰で、男はエリナの体をまさぐるのが好きだった。いつ客が来るのかもわからない店内で裸に剥かれるのはスリルがあって素敵だった。
店主はいつもエリナに同じ本の同じページを広げさせた。それは古い雑誌で、裸で男女が絡み合う写真が修正もいれられずに載せられていた。エリナの背後にまわり、ワンピースのファスナーを下ろし、汚れた手をそのなかへと忍ばせる。胸を揉み、足の間を指でぐちゅぐちゅと探る。そしていつも同じセリフを耳元で囁く。
『女の子なのにこんな本を読むなんていやらしいね。こんなふうにされたいんだろう?』
商店街の一角にあるその古本屋には、いつだれが入ってくるかわからない。そんな場所での痴漢ごっこのようなプレイはエリナを少なからず興奮させた。本当に自分がいやらしい本を読んで恥じらう少女であるかのような錯覚を覚えた。
ごめんなさい、もう読まないから、とかすれた声を出す。店主は喜んでますますエリナの体を責め立てた。最後はいつも2階にある住居部分の座敷に連れ込まれて、悲鳴をあげるまでクリトリスと女性器を舐められた。そのあとでやっと挿入し、果てる。大人同士の秘密の遊び。繰り返し行われた戯れ。
思い出すだけで、エリナのその部分はしっとりと湿り始める。そしてあの楽しい時間をぶち壊して終わらせてしまったのが、あのトオルだ。
店主に家族がいるのは知っていた。奥さんと息子の3人暮らしと聞いていた。奥さんは昼間はレジ打ちのパート、夜は工場の夜勤を掛け持ちして家計を支えていたらしい。大学生の息子の学費を稼ぐために。息子はたいした儲けも出ない古本屋にしがみついている父親に愛想を尽かし、毎日夜遅くにならないと家には寄り付かなかった。
それなのに、その日は珍しく息子が早くに帰宅した。大雨の夕方、いきなりガラリと開いた2階の扉。エリナの上にまたがったままの店主は腰を抜かすほど驚き、息子は目の前の光景に声もでないようだった。
『なにやってんだよ!ろくに金も稼げないくせに女なんか引っ張り込みやがって!』
息子の怒号が飛び、店主はもごもごと言い訳めいたことを口にした。その場で息子は母親に連絡を取り、父親である店主と殴り合いの大喧嘩を始め、エリナは洋服を拾い上げて壁にもたれながらその様子を観察していた。
ほどなくして母親が帰宅し、狭い2階の部屋で包丁を振り回し始め、揉み合いになった結果として父親は階段から転がり落ちて頭を階下の床にしたたかに打ちつけた。母親は動かなくなった父親を抱き起こし、泣き叫び、救急車を呼んで父親と母親が行ってしまった後、部屋にはエリナと息子だけが残された。
息子は汚らしいものを見るような目でエリナを睨みつけ、おまえが悪いんだと畳の上に押さえつけた。泣きながら自分を犯す男を見ながら、エリナは少し悪いことをしたような気持ちになった。
ことが終わった後で、ごめんね、と言うと、息子は我に返ったのか真っ青になってエリナに土下座した。立ち上がり、ふたりぶんの精液が流れ出る股間を拭い、服を着て、母親が戻ってくる前に立ち去った。
それ以来、その古本屋のある町には寄り付いていないし、その後あの店主がどうなったのかも知らない。
それがエリナとトオルの出会いである。
バスルームから出ると同時に玄関のチャイムが鳴らされた。タオルを体に巻き付けたままドアを開けると、ハアハアと息を切らせたトオルが顔をのぞかせた。
記憶の中にある姿からするりと脱皮したように、目の前にいるトオルは大人になっていた。
「走ってきたの?そんなに急がなくてもよかったのに」
エリナの言葉にトオルは息を整えながらにっと笑った。
「だって、まさかもう一度会えるとは思わなかったから。はやく捕まえておかないと、またどっかに逃げて行っちゃいそうな気がしてさ」
ふたりで声をそろえて笑う。巻き付けたタオルが床に落ちる。代わりにトオルの腕がエリナを包み込む。激しい心臓の鼓動が耳元で聞こえる。