カオルE-1
2009
葉が萌ゆる季節。武田龍治は、如月出版社が入るビルを出て繁華街へと向かった。
彼は今、来月創刊する、女性向け雑誌の編集長として眠れぬ日々を過ごしていた。半年前からプロジェクト・チームを組んで充分な準備をしてやってきたのだが、思った通りに進まないのが世の常で、スケジュールは遅れ気味だ。
だが、武田はあくまで楽観視している。世に送り出される雑誌で、発売に間に合わなかったなど極めて稀だ。大抵は何とかなっている。
(そんな事より、今は息抜きが優先事項だ……)
武田は常々、“努力はもちろん必要だが、やり過ぎれば独創性を欠いてしまう”を信条としていた。だから今日は、部下逹を二週間ぶりに早く帰社させて、自らはリフレッシュを図ろうと飲みに出掛けた。無論、部下の事など口実であるが。
繁華街までは、歩いて10分程の距離。武田は、散歩と洒落こんだ。心地よい風が流れている。彼は、生命の息吹きを感じさせるこの時期が好きだった。
繁華街のメインストリートが近づいた。ビルを彩る悩ましいディスプレイの数々。虫を引き寄せる花のように、様々な鮮やかさを見せ付けていた。此処からの光景は一種の芸術だ。雑多な中に、ひとつの統一性が垣間見える。武田は、目指したビルの五階に辿り着いた。
ビクトリア調の重厚なドア。 およそ、半世紀前のアメリカ映画と同じ名前のネーム・プレート。武田が此処を訪れるのは二ヶ月ぶりだった。
「いらっしゃいませ」
まだ時間が早いのか、店内は閑散としている。武田は何時もの留まり木に腰を降ろした。
「ずいぶんとお見限りね。他所に行ってたんでしょ」
痩身に白いブラウスと細身のタイトスリット。艶やかな美貌に濡れた瞳が、心の平静を奪い去る。
武田が愛して止まないカオルが、そこにあった。
「何時も言ってるじゃん!俺はカオルちゃんオンリーだって」
「どうかしら?武田さん、おモテになるみたいだし」
カオルは、後ろのキャビネットからキープボトルを取り出す。一連の動作を眺めて、武田は笑みを浮かべた。女性らしいラインは、彼の男を奮い立たせる。
ふと、後ろ姿に違和感を持った。
「あれ?カオルちゃん、髪、変えた」
何時もの長い髪でなく、肩口で揃えたような髪型。武田の目には、ちょっと前に流行った女性シンガーのように見えた。
「さすが武田さん。目敏いですね」
カオルは、グラスにジャックダニエルを注ぎ入れながら、上目遣いの視線を投げた。
「これね。ウィッグなんです」
「へえ。よく似合ってるよ」
「もう!褒めたって、何にも出ませんよ」
はにかむような笑みを浮かべ、グラスを武田の前に置いた。
「初めて見たよ。カオルちゃんのウィッグ姿なんて」
武田はグラスを傾けた。
喉の奥が、焼けるように熱くなる。
「久しぶりにね、着けてみたくなったんです」
「えっ?昔、着けてたの」
「ええ。ずいぶんと昔に。思い出の品なんです」
そう言ったカオルの眼は、優しさに満ちていた。
「古い物だから、あちこち修理が必要で……でも、大事な物なんです」
「そうか。大事な物ねえ……」
そう話していると、店のドアが来客を知らせた。武田が自然とドアの方を見た。女性が一人、入ってきた。
濃色のパンツスーツ。浅黒で化粧っ気のない容貌は、繁華街とは無縁の人間に思えた。
彼女は無言のまま武田の隣に腰掛けると、カオルを見つめた。
慈愛に満ちた眼をしていた。