C-4
「疲れた…」
あまりの大変さに、頭が回らない。
ただ、解ったことがひとつ。
(…哲也くんのお母さんは、もっと大変なことを毎日…)
他人の事情は、その本人以外は解らないということだ。
(そういえば…)
途切れ々の意識の中で、母親との思い出が頭に浮かんだ。
それはまだ、雛子が女学校に入りたての頃、
「本当にもう!」
学校から帰って来るなり、怒りをぶちまけたのだ。
ちょうど母親は、夕食の下ごしらえの最中だった。
「なあに?大きな声で」
台所から、ちょっと驚いた声。当然、雛子はこの反応を待っていた。
「聞いてよ!お母さん」
つり上がった眉毛に悔しそうな目。赤い頬は、これ以上ないほど膨らんでいる。
もともと、感情の起伏の激しい子だから怒ることはよくあるのだが、今日はどうも様子が違う。
「だから、どうしたの?」
母親が訊くと、雛子は溜まった鬱憤を言葉にするのももどかし気に、矢継ぎ早に喋り出した。
「…みさ子ちゃんがちょっと失敗したからって、あんなに怒ることないのに!わたし、ほんっとに頭にきたわ」
話によれば、女学校でも軍事教練というものがあり、下級生は薙刀、上級生は銃剣の訓練が必修となっていた。
軍事教練には、退役軍人がお目付け役として参加し、厳しく指導されるらしい。
この軍人は、普段から陸軍の軍服を身に纏い、日頃の傲然な態度から、生徒逹に忌み嫌われていたそうだ。
そして、雛子たちは今日、初めての軍事教練だった。
当然、皆が最初から上手く出来るわけではない。
雛子の友達であるみさ子は、どうしても薙刀が上手く使えなかった。
その時、お目付け役の軍人が、真っ赤な顔をしてみさ子のもとへ駆け寄ると、
「貴様!何をしとるか!」
凄まじい怒声を浴びせた。
「そんなことで、敵に勝てると思っとるのか!」
般若の如き形相で罵倒されたみさ子は、恐怖のあまり震えるだけだった。
周りの同級生も、見学する教師逹も、巻き込まれるのを恐れて誰も関わろうとしない。
もちろん、雛子も同様だった。
「あんなに怒んなくったって……それなのに…」
喋ってるうちに、ぽろぽろと涙が流れた。足がすくんでしまい、何も言えなかった自分が情けなかったのだ。
「えっ…えっ、えっ…」
訳を聞いた母親は、目尻を下げて微笑んでいる。
「雛子…」
「…なに?」
「みさ子ちゃんも可哀想だけど、軍人さんもね、必死なのよ」
「えっ?」
雛子は顔を上げた。もう、泣いていなかった。