刻を越えて-10
約束偏
「やめてええ!!父さん!!」
その声は、刻を越えた。
佐之介が崩れ落ちていったあの時。
佐之介が崩れ落ちていく竹丸に剣をかざす今。
しかしどちらも佐之介の耳には届かなかった。
鼓膜を叩いたにも関わらず、彼には聞こえなかった。彼には目の前の男しか見えなかった。
佐之介の剣は竹丸の喉を捕らえた。
今度は止血も意味を成さないだろう、と自分の背後に定まらない視線を漂わせている竹丸を見ながら、佐之介は思った。
復讐は成された。
悪夢にうなされる日々は、もうこない。
竹丸が地面にその体を預けたとき、佐之介は初めて背後に懐かしい気配を認めた。
それは、いつも竹丸と、いや、坂本悠一と一緒だった女だ。しかし今までと何かが違う。
私は彼女を知っている、と感じた。
「まさか・・君は・・・」
涙を流している彼女の顔を忘れられる訳が無かった。しかし否定して欲しかった。
「そうよ、・・私よ・・父さん・・・」
必死にひねりだした彼女の悲鳴に似た、とても静かな言葉は否定ではなかった。
彼女の瞳から溢れ出す涙は、一体何に対してなのだろう?
ああ、何て事だ。何故気付かなかった?
坂本の隣にいた私の最愛の人に何故気付かなかった?
竹丸への憎悪より彼女を護れなかった悔恨を、どうして優先しなかった?
また私が、他でもないこの私が、彼女を泣かせている。
彼女に深い、深い傷を負わせている。刀で斬るよりも残酷で、決して癒える事の無い大きな傷を。何が「必ず護る」だ。七年間、共にした者を、十八年間見続けてきた者を失っていく彼女は・・・・・・。
ああ、神よ。私が貴方の使わしたものならば、なぜこのような仕打ちをするのですか?
なぜ私は生まれてきたのですか?
悪夢は覚めるだろう。けれど更に残酷な現実が、今後私の首を締め付けるに違いない。
佐之介が圭子と何か言葉を交わしている。もう僕には聞こえない。
喉を切られたというのに、痛みは感じない、ただ熱い。
いつだったか、彼女と交わした約束を僕は果たせなかった。君を護れなかった。
佐之介、お前が言う罰とはこの事か?
お前は圭子を殺すのか?
俺がかつて、そうしたように。
でもお前は気付いているのだろうか、圭子がかつてお前の隣にいた女だということに。
そして彼女を僕が護り続けてきたということに。
教えたい
こう言いたい
「彼女をこれ以上、苦しませるな」と
でも もう 僕には それさえもできないんだ
僕はもう、「雫」と化しているのだから
悠ちゃんは、息絶えていた。
父さんは、言葉をなくしていた。
月は、その役目を終えようとしていた。
そして私は、焦点を失いながら「正気を保てないだろう」と自覚していた。
数年後、川上衛の処刑が実行された。真剣で人を切り刻み、一人を狂わせてしまった罪。
佐之介の時代なら一つの武勇伝に過ぎない所業が、今、川上の首を締める。
神の子が、鬼を罰し、人に罰されるのだ。
処刑の数時間前に書かれた遺書が、圭子のもとに届く頃には、神は地に堕ちていた。
その手紙にはこうあった
「私は、もうすぐ雫になる。しかし恐くはない。後悔もしていない。ただ生まれてくる時代を間違えただけだ。私は貴方を護る事ができなかった。もし貴方にもう一度会えたなら、今度は、すべきことを間違えたりしない。過去は捨てよう、貴方だけを心に。三人で笑いあう未来を私は見つけに行く。さようなら。」
それは圭子の目には入らない
あの日から圭子の目はずっと中空を漂っている
そこに二人の姿を見ている
声を上げて笑いあう男達が、そこにいる
彼女だけが、約束を守り続けている
「刻を越えて」了