『約束のブーケ』-1
紫陽花だけが生き生きと息づく、どんよりとした梅雨の日。
「蓉子さん。お邪魔します。」
そう言って千夏は小犬のような目をした。
蓉子は、夫の教え子に向かって愛情をもって微笑む。
大学から東京に出て来たという千夏の格好にはやぼったさが残り、言葉もふとした瞬間に郷里の響きを残す。
学術的には相当優秀なレベルらしいが、女としてのレベルは平均点以下だろう。
そんな物差しで物事をはかる自分は、人として最低レベルだ、と蓉子は自覚していた。
夫の相手がこの子だったら……蓉子はふいに湧き出た考えに首を振る。
院生である千夏が、教授である夫・最上祥司を慕っていることは分っていた。
そして祥司が、この子などには目もくれないであろうことも。
祥司自身が田舎の奥地から出てきた為であろう。彼は洗練された都会の女性を好む。
その割に奥ゆかしさと恥じらいを備えた女が好きだ、などと豪語するのだから男というやつは身勝手にできている。
いや「男が」ではない。「祥司が」身勝手なのだ。子供のような男。
なぜあのような男がこんなにも人を魅了するのか。
「千夏さん。こちらへいらっしゃい。」
蓉子は千夏を鏡台の前に座らせた。
髪を丁寧に巻いてやり、新しい口紅をさしてやる。それだけで随分女は変わるものである。
「ちょうどよかった。この色、私には紅過ぎるのよ。良かったら貰って。」
有名なブランド名が書かれたその口紅はいかにも高そうで、千夏は首を横に振った。
「ねえ、千夏さん。うちは子供いないし、私は兄弟姉妹もいないの。だから私は貴女を妹のように思っているのよ。迷惑かしら。」
蓉子の言葉に嘘はなかった。
蓉子は千夏の来訪を心待ちにしていた。
それが家を出て行った夫が、着替えやら身の回りの物やらを、千夏に取りに行かせているためのものである、とは分っていたが。
千夏も板ばさみになって辛いだろうに、律儀にやってくる。
もう殆ど、夫の物は家から消えていた。
あと消えるべき可能性のあるものは……そう形のないもの。
「祥司……いえ夫は、どういうつもりなのでしょうね。」
鏡の中で千夏は、その問に答えられず下を向いてしまった。
「ごめんなさいね。」
蓉子には分っていた。
夫がどういうつもりか、なんてことは。
このまま別居、離婚、そして次の女と再婚するのだ。
その間、きっと1年もないだろう。
蓉子が最上を寝取った時の、最上の元彼女の声が蘇る。
「次はあなたの番よ。ただそれだけのこと。まるでバトンのないリレーをしているようなものよ。あなたもまた、別の女に最上を奪われる。その男はね、1人の女なんかで満足できるような性質じゃないのよ。」
真夜さん貴女は正しかった、と蓉子はその言葉を投げつけてきた女の面影を思い出す。
結婚すればそのリレーに終止符を打てると思った自分は浅慮、いや傲慢だったのだ。