『約束のブーケ』-2
「好きな人ができたんだ。別れて欲しい。」
半年前、夫に突然そう言われたときには、目の前が真っ暗になった。
思春期の子供のようなその幼い物言い、そして内容。
結婚というものは、こんな理不尽な一方的通告をなくすための制度ではなかったのか。
そんな当然の理屈は、最上に通用しないというのか。
「慰謝料については、できるだけのことはするよ。」
などとおそろしくツマラナイコトを言った。
大切なのは、そんなことなのか。
次の日には、相手の女が家に来た。
学会で出会った他大学の教授で、最上と同じ39歳だという。
東京生まれの東京育ち。
天真爛漫の怖いもの知らず。もう40に手が届くというのにもかかわらず艶やかさを失っていない美女。
欲しいモノは全て手に入れて来た、と全身からオーラで示してくる。
「最後のチャンスだと思いまして。」
木下小町と名乗るその女はそう言った。
「子供を産むのにギリギリの年齢でしょう?」
そう口端を曲げたとしか思えない笑みで言われた時、蓉子は自分の中の何かがプツリと切れたことを感じた。
それがいわゆる「堪忍袋の緒」というやつだったことに気付いたのは、2人が手を繋いで、蓉子と最上が7年間住んでいた家を出て行った後だったが。
子供。
子供を本当に欲しかったのは蓉子の方だ。
子供さえいれば……
子供,子供,子供。
頭の中がその言葉だけでいっぱいになる気がした。
それから最上は弟子の千夏を荷物とりに度々家に遣した。
しかし、本人は1度も来ないのだ。
どれだけ卑怯な男なのだろうか。
逃げていれば、どうにかなると信じて疑わない。
憎くて憎くて仕方がなかった。
最上も、それをまだ愛していると思ってしまう意味の分らない自分の心も。
涙は2ヶ月で枯れた。
「死にたい」と呟くのも、3ヶ月目に辞めた。
4ヶ月目には感情もおさまり、5ヶ月目には最上は帰ってこないものと諦めがついた。
ただ……ただ、小町の言葉だけが許せなかった。
自分だけが特別だと思っている、あの傲慢な態度。
「蓉子さん……」
鏡の中の千夏が、突然ポロポロと涙を流し始めた。
「ごめんなさい。怖い顔をしていたかしら。」
蓉子は謝罪したが、それに千夏は,何度も、何度も頭を振った。
「違うんです……違うんです。」
千夏は泣きながら自分の鞄を引き寄せた。
中から出てきたのは一枚の紙。
それが何なのか、見なくても蓉子には分った。
―――離婚届。
最上は遂に、最後のものを、取り戻しに来たのだ。
なんて容赦のない男なのだろうか。
きっと用意周到な夫は、蓉子の埋めるべきところ以外、全て埋めているだろう。
「最上先生は木下先生と研究休暇をとられて、米国に2年間留学なさるそうです。」
その千夏の言葉に、蓉子は崩れ落ちた。
「終わりねえ。」
言える言葉はもうなかった。