『約束のブーケ』-6
「今先輩の母校で働いてるんですよ」
透は僕の通っていた中学校で教師をやっているらしい。
面倒見がよく、誰とでも分け隔てなく接することができるヤツなので、そういう仕事は合っていると思った。
「ただ、思っていたのより、実際にやってみることがこんなにも違うんだなっていうのを実感してます」
「それが社会に出るっていうことなんだよ、透」
「先輩らしい言葉ですね」
僕の辛辣な言い方にも、透は薄く笑った。
「でも、これでよかったんですよ」
感情を全部飲みこんで納得したような顔で、しきりに透は頷いていた。
だから、僕もそれ以上は何も言えなかった。
「…兄さんとは、もう会いましたか?」
「いや、日をあらためて行くつもりだ」
それは、今回の帰郷の中で、僕が最も避けて通れない物の一つだった。
そして、ずっと逃げ続けてきた事に対しての報い。
答えを出さなければ。
彼女の笑顔は、もう二度と見れないのだろう。
あの日失われた、明良の音のように。
※
卒業式を間近に控えたある日のこと。
音楽室の窓から見える桜が、その鮮やかな花弁を徐々に開かせるのを遠目に眺めながら、僕は変わらずに放課後の独演会を続けていた。
たった一人の観客は、窓際まで持って行った椅子に座り、春の陽気が舞う空をじっと見つめていた。
明良は時折り、僕の方をチラリと見ては、また窓の外に視線を移したりしている。
彼女がここに顔を出すようになってから、僕は例の自作の曲をよく弾くようになっていた。
僕の勝手な想像なんだけど、おそらく彼女もそれを望んでいるような気がしたからだ。
溢れ出る音の渦に身を投げ出して、思う気ままに流されていたからだろう。
明良はいつのまにか席を立って、僕の横に並んでいた。
見上げると、僕をじっと見下ろしていた彼女が柔らかく微笑んだ。
「代わって」
何か弾きたい曲があるのかと思い、僕は明良に席を譲った。
スカートの端を押さえて椅子に座った明良は、滑らかな動きで鍵盤に触れた。
それは、僕が今まで弾いていた曲の続きだった。
「お前、できるのか?」
驚いた顔で僕が聞くと、明良が指先から目を離さずに頷いた。
「ずっと聞いてたから」
ここに来る時、僕は基本的に楽譜を持ち込まない。
暗譜で弾けるような好きな曲しかここでは弾かないからだ。
もちろん明良が今弾いている曲の楽譜は、僕の部屋に置いたままだ。
慈しむようにピアノに触れる明良の演奏は、優しく、時折切なさを覗かせながら続いていく。
個人的な力量は僕の方が上だったけど、彼女には聞いている者を惹きつける表現力があった。
それは自分に足りない物で、ピアニストにとって最も重要な物の一つだと、僕は思っている。
つまりはこういう事だ。
もし音楽のことを知らない素人に僕らの演奏を聞かせたら、間違いなくその人は明良の方が好きだと答える。
心に響く音。
それが明良の才能だった。
本人は、気付いていないけれど。