『約束のブーケ』-5
「不思議だね」
彼女は微塵も疑うことのないような目で、そう言った。
「修ちゃんの、歌が聞こえる」
耳に手を寄せて、明良が目を閉じる。
僕はそれを合図に、再び音を奏でる。
ゆるやかな旋律が、室内に響き渡っていく。
力強い運指が、共鳴板を震えさせている。
吹き抜ける音の風を感じながら、僕の胸が震えている。
人前でピアノを弾いている時、泣き出しそうになってしまうことがあった。
たぶん、僕は、ずっと叫んでいたのかもしれない。
言葉にならない思いを、誰かに聞いて欲しくて、口にする代わりに訴え続けてきたんだ。
だけど、それは何にもならないことだって。
ちゃんと言葉で伝えなきゃ届かないんだなって。
中学に上がる頃にはもう分かっていた。
僕はそれを知るくらいには大人になっていた。
だけど、すぐに行動に移せるほど大人にはなりきれないでいた。
だから僕は聞いてみたかったんだ。
「それは、どんな歌?」って。
明良にだけ聞こえてる僕の声が、どんなふうに聞こえているのか、って。
※
駅前のファーストフード店でハンバーガーをムシャムシャ食っていると、見知った顔に声を掛けられた。
「高崎先輩、お久しぶりです」
「透か?」
パリッとしたシャツに身を通した細身の男。
吉葉透は僕の高校時代の後輩だ。
透は人懐っこい顔でへらへら笑いながら、向かいの席にポテトのトレイを載せた。
「ご一緒しても構わないですよね?」
「お前ひとりか?」
「ええ、暇なんです僕」
透は空いていた椅子を引くとさっさと座ってしまった。
「向こうの話、いろいろ聞かせてください」
それからしばらくの間、僕たちはお互いの仕事や生活について報告しあった。
透と話していると僕は否応なく思い出してしまう。
灰色だった高校時代のことを。
音楽に生きていた僕を慕っていた唯一の後輩が透だった。
白黒だった世界で、周囲を景色のように眺めていた。
クラスメイト達はみんな動かない置物の様に見えた。
学校の中は全部そう。
時間がそこだけ止まっていたのかのように静かな日々。
だけど僕はいつしか気付く。
止まっていたのは周りではなく、自分だったという事。
置物のように鎮座していたのは僕の方だった。
人生の中で一番空虚だった記憶。
ここから僕の歴史はグレーゾーンに入る。
…明良のいなかった日々だということを、最近になってやっと気付いた。