『約束のブーケ』-4
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中学三年生の冬、身を切るような寒い日。
窓ガラスが白く曇った音楽室で、僕はひとりピアノを弾いていた。
誰もいない放課後のこの場所で、好き勝手に弾くのが日課になっていた。
学校にいてもつまらないことだらけだったけど、これだけ大きなグランドピアノは他に置いてない。
何十年も前からあったという古ぼけたピアノは、その見た目通り古ぼけた音を奏でている。
定期的に調律してやらないとすぐ狂ってしまうと音楽の先生に言ったことがあるが、ここの鍵を渡されただけでその後何も言ってこない。
つまり、音楽室を自由に使っていい代わりにこいつのメンテを任されたということらしい。
好都合だった。
いつもは課題曲しか弾けないけど、ここでなら僕は思う存分、自分の音が出せる。
誰にも邪魔されない、僕だけの空間という物が、僕にはとても心地よい響きにも聞こえた。
だから、たぶん。
油断していたんだろう。
その日の僕は、演奏に夢中になりすぎていたせいか、近づいてくる侵入者の足音にも気付けなかった。
パチパチパチ、と控えめな拍手が鳴って振り返ると背後の黒板に寄りかかるようにして明良が立っていた。
「いたんなら声掛けろよ」
「ごめんなさい」
彼女は少し罰の悪そうな顔で微笑むと、僕の側までやってきた。
「ショパン?」
譜面台には何も載ってなかったけど、明良は僕が弾いていた曲を察して、そう聞いた。
「よく分かったな。好きだっけ、ショパン?」
「うん、修ちゃんがここでよく弾いてたから」
「いつも聞いてたのか」
「時々」
全然気付かなかった。
「邪魔したら悪いかなと思って…」
「いいんだよ、お前なら」
言ってから、僕かなり恥ずかしい事を言っているなと思った。
でも明良は、首を傾げてきょとんとするだけで、僕の言ったことの半分も理解していない様だった。
思わず気後れしそうになって、それを隠すために鍵盤に向かった。
音楽室の中は少し傾きかけた日が差していて、生温かい空気の中、僕は新しい曲を弾いた。
名前はまだ付けていない。
半年前から作曲の勉強を始めた。
誰かに教えられた曲を弾くより、こっちの方が全然楽しかった。
ショパンやベートーヴェンは素晴らしいけど、他人に強制されている感じがして、どうしても自分の物にできない。
僕が未熟なだけかもしれないけど、未熟なりに作った曲は、濁らずによく通った音が出る。
感情がうまく曲に乗っているのが自分でも分かった。
「その曲は?」
それまで黙って静かに聞いていた明良が口を開いた。
僕は明良に作曲のことを教えた。
思えば、人に話すのはおろか、今まで一度だって聞かせたことはなかったのに。