『兵士の記録〜エリック・マーディアス〜第三部』-39
第十三話 《変後暦四二四年二月十八日》
「ぜはぁ…………ぜはぁ………」
月明かりだけが唯一の光源となる、黒い変前林。
今、その中に二人の姿が浮かび上がっていた。
エリックと、その腕に抱えられたレイチェである。
二人(というかエリック)は警備ラインを越えて変前林に飛び込んだ後、暫く走っていたのだ。
「ここまで…くれば………大丈夫…だろ………はぁ…」
息を整えつつエリックはそっとレイチェを降ろし、自身は木の幹に寄りかかる。
「…………すいませんでした…私のせいで……」
月明かりのせいでそう見えるだけなのか、心なしか青い顔でレイチェが言った。
「……ふぅ…」
ようやっと呼吸が整ったのか、エリックがため息をつく。
「……………すいません…」
そのため息に、レイチェはますます落ち込んだようだ。
「全くだ…」
にべもなく、エリックは言う。
「………」
沈黙するレイチェ。
「…お前が重いから腕が痺れた……少しはダイエットでもしたらどうだ?」
何処か不機嫌そうに、エリックはぼやいた。
「え…あ……すみません……」
素直に、レイチェは謝る。
「………謝るなよ。」
そんな彼女に軽く苦笑し、エリックは言った。
そこでようやくレイチェは、先ほどのエリックの言葉が冗談だと気付いたようだ。
そしてレイチェが何か言いかけた時。
「ところで…抜けた腰は治ったか?」
先手を打ってエリックが発言する。
その声には、からかうような響きが含まれていた。
「………思ってたより…意地悪ですね……」
レイチェの言うその声にはしかし、非難の響きはこもっていなかった。
「期待に添えなくて悪かったな。」
言って、エリックはちらっとレイチェを見る。
「でも…思ってたより話しやすくて良い人です。」
笑っていた。それを見て、エリックは目を逸らす。
レイチェの笑顔は、やはりクリスの笑顔では無い。
(人の笑顔で心の穴を感じるとはな……)
自嘲気味に心の中でぼやくと、レイチェに再び視線を向ける。
「……まぁ、暫くは追手も来ないだろ。少し休んだらレイヴァリーに出発だ。街道に沿っていけば、迷う事もないだろ。とりあえず今は、休んでおいた方が良い。」
言って、エリックは木の根に腰をおろす。
「そ、そうですね。」
レイチェも頷いて腰を下ろし、同時にぶるっと身体を震わせる。
二月の夜は冷えるのだ。
「寒いか…?」
そんなレイチェに気付き、エリックが声をかける。
「いえ、大丈夫です……」
強がり見え見えで、レイチェは言った。
しかしエリックは構わず上着から何かを取り出し、レイチェに投げる。
「これは……?」
エリックが投げた小さい四角の物体をなんとかキャッチし、レイチェはまじまじとそれを見る。それは、小型微発熱装置…つまりカイロである。
「良いんですか?エリックさんが寒いんじゃ……」
驚いたように、レイチェが聞く。
「いらない事を気にするな。ルゥンサイトの土産だ。」
短く答えるエリック。
「…?は、はい………」
よく判らないという表情をしながらもレイチェは頷き、カイロを上着に入れる。
「暖かい……本当言うと、寒かったんです。ありがとうございました。」
屈託なく、レイチェは笑う。
エリックにはその笑顔が、何故か辛かった。
「そりゃ良かったな……」
そう言うと、そのまま顔を背ける。
「ルゥンサイトといえば…エリックさん、ルゥンサイトの辺りから少し変わりましたね…」
そんなエリックへと、レイチェは言葉を投げかける。
「………ああ…過去から逃げるのを、止めたからな。」
レイチェの方を見もせずに、エリックは答える。
「過去…ですか……?」
再び、レイチェはよく判らないという表情をした。
「……ああ…」
そんな彼女の様子に、エリックはため息を一つつく。
これ以上レイチェに話しても、仕方ないのは判っている。
だが先程見た彼女の屈託の無い笑顔が、エリックに過去を話させようとしている。
それは、判って欲しいという思いではない。もっと、どろどろした感情。
彼女に、自分の苦悩を知らしめ、その屈託のない笑みを奪い去ってやろうという思い。
「………」
そんな自分の感情に対して言いようの無い嫌悪感を覚え、エリックは沈黙する。