『兵士の記録〜エリック・マーディアス〜第三部』-126
目を閉じたままのクリスは、返事を返す筈も無く。
心に湧き出す悲しみが、エリックの瞳からあふれ出そうになった。
「ふむ、それか」
そんなエリックの横をすり抜けたナインは、無造作にCS装置に手を当て、そのまま動きを止めた。恐らく、触れた場所からナノマシンで作った端子でも伸ばして中の様子を探っているのだろう。
目許を乱暴に拭うと、ナインの様子を固唾を飲む思いで見つめるエリック。もしダメだった場合には、即座に銃を抜けるよう、手をホルスターに仕舞ってある銃にかける。クリスの治療ができないというなら、ナインに用はないのだから。
「……なるほど」
暫くそうやって固まっていたナインは、やがて手を離した。指先から白い塊が、パラリと落ちた。作った端子を分解して、ナノマシンに戻した余りだろうか。
まぁ、そんな事などエリックにはどうでも良い事だ。重要なのは、クリスを治せるのか治せないかだけだ。
ホルスターにやった手が震えているのに、エリックは気付いた。感傷と期待と不安と…色々な感情に晒され続けた所為だろうか。
「それで、助かるのか…?」
早く答えが欲しくて。
エリックは震える声で尋ねた。
「あぁ、問題ないだろう。ただ、修理は目的地についてからになるがね」
「…………!」
対照的に、素っ気無く答えるナイン。その言葉に、エリックは全身に震えが……どんな言葉を用いても表現できない衝撃が走るのを感じていた。
クリスに、会える。
『生きている』クリスに、また会えるのだ。
今まであった葛藤など、全てどうでも良くなる。いや、もう悩む事すらしなくて良い。
「……本当だろうな……?」
これがぬか喜びであっては堪らないと、エリックは確認する。
「信じる信じないはお前の勝手だが、どうする?」
にやにやと笑うナインの言葉で、エリックの頭が幾分冷える。ナインならば、「治せない」といった途端にエリックが攻撃してくる事くらいは予想しているだろう。とすれば、此処で「治せる」と言っておいて、目的地についたらエリックを殺してのけるくらいはするに違いない。最初から、ナインの言葉など信じられる訳がないのだ。
……ないのだが。
「…………俺に、選択の余地があると思うか?」
信じるしか、ないのだ。たとえ嘘をつかれていようが、クリスに会えるかも知れない。確率がどうとかいう問題でもない。可能性があるかないかだ。
ここでナインの協力を断れば、クリスに再び会える可能性は費える。
もしかすると、この先医療技術が発達して、ナインの手を借りなくてもクリスを治療できるかもしれない。だが、その技術が開拓される保証がない事も確かだ。
どんなに確率が低くても、エリックには結局、ナインにすがるしかないのだ。目先に差し出された可能性にすがるしかないのだ。それがどんなに愚かな行為か、判っていても。
「くくく、判っているじゃないか。それでは私はそろそろ、寝るフリをしに行くとしよう。何かあれば通信機で連絡してくれ」
ナインは満足げに笑ってエリックの方に何かを投げると、踵を反して歩き出した。
エリックが投げられたものを危なげなく受け取ると、それは小型通信機のようだった。普通のものと違ってボタンが一つついているだけという事は、ナインとの通信専用という事だろう。
「お前も早くソレを直して欲しいだろう? なるべく早く頼むよ」
最後に一声かけて、ナインは部屋から出て行き。その様子を見送ったエリックは、CS装置に寄りかかるようにして座り込む。
自分が、目の前ににんじんを吊るされた馬になったような気がした。
「……いや」
それよりも、もっと滑稽だろう。
「…………ふ…っ」
鼻先ににんじんを吊るされて走る自分を想像して、エリックは自嘲を込めて笑う。全くもって笑えない想像だとは、判っていても。
「…………」
自嘲の笑みすらも消え、疲れた表情でエリックは天井を仰ぎ。目を瞑る。
視覚を封じる事で、背中から伝わるCS装置の微弱な作動音と冷気がはっきり感じられる。これだけが、今エリックに与えられたクリスの鼓動と体温。それは勿論、いつかジュマリアの基地でクリスから感じたものとは似ても似つかず。
だからこそ、エリックはナインへの協力を選んだ。
それでも、迷いが消えた訳ではない。
「クリス。やっぱり俺は……間違ってるのか?」
再び開いた目で虚空を見遣り、エリックは呟く。
勿論答えなど返っては来ないし、そもそも聞くまでも無い。間違っているに決まっている。クリスの事を想いながらも、前に進もうとした筈にも関わらず。エリックは彼女の為に、世界に悲劇を撒き散らそうとしていて。それが愚行でなくてなんだというのか。
しかし。それでも。
「……それでも、止められる訳なんかないだろう?」
エリックの胸に空いた穴は、常にクリスを求め続けていて。
それが、もしかしたら叶うかもしれないと。
胸の奥で、心弾むような想いがある。
楽しみにしている日を、指を折って待ち焦がれる子供のような想い。想像するだけで心昂ぶるような、純粋な感情。時間の流れすらもどかしい感覚。
眩しすぎて目が眩む程の『希望』が、エリックには視えているのだ。
自分でそれを捨てる事など、どうしてできるだろうか。
「…………早くお前に……会いたい」
たった一つの、小さく大きい望み。
それを呟いて。エリックは再び目を閉じる。
背中に感じるCS装置の振動に、再び意識が行きかけて。途端に襲ってきた、今までの疲労感。すぐにエリックの意識は、伝わる振動に攪拌されるようにして混濁していく。
「……クリス……」
もはや呟きにすらならない声で呟いて。エリックは、引きずり込むような眠気に意識を委ねた。