『兵士の記録〜エリック・マーディアス〜第三部』-113
第四四話 《変後暦四二四年三月五日》
衝撃の瞬間訪れた、突然の暗闇。
「…………ぅ……」
痛む身体を起こして、エリックはコクピット内照明をつけた。明かりに浮き上がるコクピットには歪みやヒビ割れが目立ち、ディスプレイはおろか計器類にも明かりは無い。
攻撃が来ないという事は、ムカデはあの時に大破したらしかった。
ともかくベルゼビュールを再起動するためにコンソールを何度か操作してみるエリックだったが、反応は全く無い。
「……機能停止…か」
いくらベルゼビュールが名機とはいえ、あれだけの目に遭ったのだ。身体が圧迫されたりはしていない事を、むしろありがたく思うべきだろう。
「……ふぅ」
本当に運が良かったと、エリックは思う。
ムカデの反応がわずかでも早ければ、エリックの動作が少しでも遅れれば、或いはムカデの足が地面を突き抜けなければ。どの条件が重なっても、エリックに命は無かったに違いない。
一息ついたエリックは漸く、外の状況を気にかけ始めた。ベルゼビュールが機能停止している今、敵襲があると非情にマズい。先ずは外の状況を確認しようとハッチに手をかけた所で、外にはナノマシンの白い粉が積もっている事を思い出すエリック。作戦が始まる前に用意されたガスマスクを装着すると、改めてハッチを開いた。
ベルゼビュールの歪みのせいかハッチは途中で止まり、エリックは半ば這い出すようにして外へ半身を乗り出した。ガスマスクの強化プラスチックを通して見た景色は若干濁っていたが、気になる程では無い。籠もる自身の呼吸音を意識から廃除し、辺りの気配を探る。辺りに敵が居る気配はなく、また、動くものも無いようだった。
「………よし…」
安全を確認したエリックの声が、ガスマスク内に籠もった。
ベルゼビュールはがくりと膝をつく姿勢になっていた為、コクピットハッチからは地面が若干近くなっている。エリックは昇降用の窪みを少し下がり、後は一気に飛び降りた。
砂地に着地したような感触と同時に白い粉塵が巻き起こり、どうやら意外と積もっているらしいと、エリックは認識を改めた。そしてそれが死を振りまくナノマシンの欠片だと思うと、ガスマスクをしていても息苦しくなるような錯覚に襲われる。
「なんとかやったのか……」
ベルゼビュールから少し離れた所に横たわるムカデに目を遣り、エリックは呟いた。ムカデの頭部装甲は内側から捲れ上がり、開花した花のように中の機械を覗かせていた。もはやピクリとも動く様子は無く、さすがにこの状態から起動する事はないだろう。
「……といっても……」
ベルゼビュールに目を移したエリック。その口から零れたため息が、強化プラスチックを小さく曇らせた。ベルゼビュールも頭部と右腕が吹き飛び、胴体部も随分と歪んでしまっている。修理が可能かどうかすら疑わしいだろう。
「随分と、無理をさせたからな……」
ベルゼビュールを眺めながら、近くにあったビルに背をもたれさせるエリック。さすがに疲労が激しく、そのままずるずると座り込んだ。鳥一羽、虫一匹居ない死の街に降り積もる雪のような白い粉。その風景に、もはや闘う力を失ったベルゼビュールは酷く似合いに見えた。
そんなベルゼビュールに、エリックは様々な思いを巡らせる。今までこの機体を駆って戦っていた事が、遠い昔のような錯覚。或いは、目の前にある機体が、故知の友のような感慨。
異様なまでに静かなこの場所で。戦う手段を失ったエリックにできる事といえば、そんな考えを頭の中で遊ばせる事くらいのものだ。敵の気配が無い以上無駄に警戒する事もないだろうし、下手に動き回って面倒を起こすのも得策ではない。
……要するに、暇なのである。
「…………ふぅ」
ふとため息をついて見上げた、ビルに沿って横長に切り取られた空は、ガスマスクなど脱ぎ去ってしまいたくなるくらいに高く透き通っていて。エリックはタバコを吸わないが、こんな時に一服すれば絵にはなるのかも知れなかった。どちらにしてもガスマスク越しでは一服は無理かとエリックが気付いたのは、一瞬後れてだったが。
そんなだらだらとした思考が毎回の様に、クリスの事へと移って行こうとした時だった。
突然の爆発音と衝撃。距離はかなり離れているようだが、それでも衝撃で白い粉がパラパラと舞った。エリックは半ば直感的に、アルファ達が成功したのだと悟った。
「となると、まずは救援でも呼ばないとな……」
エリックは一人呟いてから、携帯通信機を取り出してガスマスクの外部入力端子につなぎ、部隊のネットワークに接続する。もう通信妨害も解除されているかも知れないと思ったからだ。バフォールの機体通信に繋ぐと、すぐにアルファの声が聞こえてきた。どうやらエリックの予想通り、成功したらしい。戦闘中という訳でもないようだ。